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伊達藩が、鳥羽・伏見戦争にの参戦にしなかった理由

2017年12月20日 01時56分56秒 | 宮城県・仙台
江戸時代末期
「伊達藩が、鳥羽・伏見戦争にの参戦にしなかった。」
ことについて前回述びました。

簡単にいうとお金が無かったことです。

そこをもう少し詳しくすると、

この時代について
1853年 嘉永6年6月2日にアメリカ合衆国ペリー艦隊が
伊豆半島入口沖に入り翌年1月アメリカ合衆国と
調和印が行わりました。
このときアメリカの上陸した
将官と兵士500人に接待の料理を、
江戸浮世小路「百川」に2,000両で依頼しました。

その後 1856年(安政3)伊達藩の年予算です
  蝦夷地 警固方 一年常用1万両
  軍艦年間2造船各5千両1万両、大・小砲と砲台三千両、
  藩主慶邦公の水戸藩の娘との再婚姻実施翌年、
  講武場の設置(養賢堂と別に幕府に並んで新武装を教育)、
  江戸の大地震と大風雨の大破補修そのほか
  11万両余の藩出費のため借りました。  
  このため米担当人を替えました。
これには、年のようになる「やませ」の冷害損害を含んでません。

北海道防衛担当になり「ロシア」対策です。
函館に、ロシア駐留館ができ仙台での教会を準備していました。

天保飢饉の1833年から1839年間にまじめに
藩財政対策を他藩は 実施してました。

伊達藩は、明治以降につながる産業が生れません。
結果に はっきり特産の産業として育成をしていません。

米の相場で「もうけする。」継続する歴史でした。
鳥羽・伏見戦争まえ 特に1865年以降の
米価値がアップして一揆が各地で発生しまい

岩手南部藩の北の海岸から一揆の人間が、
南部藩には話しにならないと
伊達藩に押し込むので仲介にしていました。
また天領の福島においても伊達藩に
押し込んでいました。

















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