「坂の上の雲」と大企業病
明治初期の日本の陸海軍、帝政ロシアの姿を描いた『坂の上の雲』での描写が、大企業病と呼ばれている症状と共通点が多いことに気付きました。
伝統や慣習に自縄自縛になって硬直化している日本企業にも通じるものがあるので、以下に紹介させて頂きます――。
【極端な規律美】
どの国の軍隊でも、軍隊は規律をもって生命としているが、ドイツ軍隊にあってはそれが極端であり、規律美のためには他の重要なことでも当然のように犠牲にする。
【規律と形式】
ドイツ騎兵の鈍重さ。というのは、フランスだけでなくヨーロッパの馬術界の定評になっていた。
あきらかにドイツの規律と形式を好みすぎる性癖からきた弊害だが、ドイツ人たちはこの不便さに気づきながらもなおかつこの教範を改正しようとしないのは、個人の性癖がなおしにくのと同様、民族の性癖というものも、どうにもならぬものらしい。
【非合理な金縛り】
日本の騎兵は、あの非合理なドイツ乗馬術の金縛りにあって身うごきがとれなくなるであろう。
【晦渋な戦略戦術】
すぐれた戦略戦術というものはいわば算術適度のもので、素人が理解できるような簡明さをもっている。
逆にいえば玄人だけに理解できるような哲学じみた晦渋な戦略戦術はまれにしか存在しないし、まれに存在しえても、それは敗北側のそれでしかない。
たとえていえば、太平洋戦争を始動した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想がそれであろう。
戦術の基本である算術性をうしない、世界史上まれにみる哲学性と神秘性を多分にもたせたもので、多分というよりはむしろ、欠如している算術性の代用要素として哲学性を入れた。
戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない「必勝の信念」の鼓吹や、「神州不滅」思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた。
【秩序が老化】
この時期のロシア人には、ロシア社会そのものが生気を失い、秩序が老化しきっていたせいもあって、そういう民族的活力にとぼしいようであった。
【随順の美徳】
徳川300年の封建制によってつちかわれたお上への怖れと随順の美徳が、明治30年代になっても兵士たちの間でなお失われていない。命令は絶対のものであった。
かれらは一つおぼえのようにくりかえされる同一目標への攻撃命令に黙々としたがい、巨大な殺人機械の前に団体ごと、束になって殺された。
【応変能力の欠落】
伊地知幸介がすぐれた作戦家であるという評判は、陸軍部内で少しもなかった。
ないどころか、物事についての固定観念のつよい人物で、いわゆる頑固であり、柔軟な判断力とか、状況の変化に対する応変能力というものをとても持っていないということも、かれの友人や旧部下のあいだではよく知られていた。
【保守主義者】
陸軍には、海軍の山本権兵衛に相当するようなすぐれたオーナーがいなかった。
「日本海軍はどうあるべきか」という構想が最初からあり、いかにすればロシアに勝てるかという主題がその構想を精緻にし、それをもって海軍の体質から兵器まで一変させた。
が、陸軍は山本に相当する人物をもたなかった。
地位と権力からいえば山県有朋がそうあるべきだったが、この権力好きな、そしてなによりも人事いじりに情熱的で、骨のずいからの保守主義者であったこの人物の頭脳にあたらしい陸軍像などという構想がうかぶはずがなかった。
【わけのわからぬ命令】
この乃木軍の下ではたらいている師団長や旅団長といった将官級で、うまれついての将才と軍人としての資質をもっていた一戸兵衛は、金沢の第6旅団をひきいて攻城に参加し、いわゆる一戸保塁をうばいとった人物だが、その一戸でさえ乃木を批判し、
「あの旅順包囲の期間中、私は前線で戦いながら、なぜ軍司令官(乃木)はこうも状況に適しない、わけのわからぬ命令ばかりを出すのだろうか」とおもったという。
このあまりにひどい作戦指導に、士卒こそ従順に死んで行ったが、将官級のなかの一、二の者はわざと病気になり後方に送られる者すらでてきた。
明治の日本人にとって国家と天皇というものが絶対のものであったのに、そういう連中のなかでもわずかながら動揺があらわれてきたことはたしかであった。
【官僚秩序の老化】
「日露戦争はあの式で勝った」というそういう固定概念が、本来軍事専門家であるべき陸軍の高級軍人のあたまを占めつづけた。
織田信長が、自己の成功体験である桶狭間の自己模倣をせず、つねに敵の倍する兵力をあつめ、その補給を十分にするということをしつづけたことをおもえば、日露戦争以後における日本陸軍の首脳というのは、はたして専門家という高度な呼称をあたえていいものかどうかもうたがわしい。
この当時の関東軍参謀の能力は、日露戦争における参謀よりも軍事知識は豊富でありながら、作戦能力がはるかに低かったのは、すでに軍組織が官僚化していてしかもその官僚秩序が老化しきっていたからであろう。
老化した官僚秩序のもとでは、すべてはこうであった。
1941年、常識では考えられない対米戦争を開始した当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきっている点では、この帝政末期のロシアとかわりはなかった。
【痼疾の反復】
同じ失敗を三度くりかえし、千人の兵をむなしく消滅させてしまうというのはどういうことであろう。
これは乃木の軍司令部や大迫の師団司令部だけの責任ではなく、日本陸軍の痼疾(こしつ)とでもいうべきものであった。
戦略や戦術の型ができると、それをあたかも宗教者が教条をまもるように絶対の原理もしくは方法とし、反覆してもすこしもふしぎとしない。
この痼疾は日本陸軍の消滅までつづいたが、あるいはこれは陸軍の痼疾というものではなく、民族性のふかい場所にひそんでいる何かがそうさせるのかもしれなかった。
【健康な批判機関の欠落】
考えてみれば、ロシア帝国は負けるべくして負けようとしている。
その最大の理由が、制度上の健康な批判機関をもたない独裁皇帝とその側近で構成されたおそるべき帝政にあるといっていい。
【毒害と病弊】
かれらはことごとく専制ロシアをのろい、「日本が、その悪魔を退治してくれることを望む」と、明石にいった。
明石は、露都ペテルブルグではさほどにも思わなかった専制ロシアの毒害と病弊が、ストックホルムにきてそれがいかにふかいかを全身で知った。
【国際的常識の欠如】
要するに日本では軍隊こそ近代的に整備したが、民衆が国際的常識においてまったく欠けていたという点では、なまなかな植民地の住民よりはるかに後進的であった。
【頑迷な固定概念】
かれはあるとき、ロシア皇帝の事実上の支配者である皇后に拝謁し、ロシアのその頑迷な固定概念をあらためさせようとして、ロシアの危機がいかに深刻であるかについて語った。
が、皇后はあたまからうけつけず、「皇帝に反対していいるのは、知識階級だけです。民衆はすべて皇帝の味方です。」と、いいきった。
【型の犠牲者】
この銃剣突撃は、おどろくべきことに後備第一師団と第十一師団の全力をあげておこなわれた。
(またあれをやるのだ)という兵士たちの絶望的な思いが、眼前のロシア軍陣地をもって「小旅順」ととなえしめたのであろう。
日本軍の師団参謀たちの頭は開戦一年余りですでに老化し、作戦の「型」ができ、その戦闘形式はつねに「型」をくりかえすだけという運動律がうまれてしまっていた。
「型」の犠牲はむろん兵士たちであった。
【病理的な精神】
ところがこの大風塵の9日、戦況についてすこしの不利な要素も発生していないのに、「いっそ鉄嶺まで総退却しよう」と決心するにいたるのは、かれの性格と精神に病理的な理由を見出す以外に、常識では考えられないことであった。
【無能な士官】
ロシアの革命気分を醸し出した原因は無数にあるが、ロシアの市民が政府、具体的には官吏の能力に対して絶望的な不信感をもっていたこともそのひとつにあげられる。
官吏の無能とそれへの民衆の不満というのは帝政ロシアのぬきがたい病根であった。
軍隊の場合は士官の無能ということになり、これに生命をあずけねばならない兵卒としてはペテルブルグやモスクワの市民よりも不満は深刻であった。
言葉をかえていえば戦時における兵卒の持続的服従心というのは士官が有能であるということによってのみ成立するものであったが、カムラン湾を追い出されて漂泊しはじめたこの艦隊が、この時期から士官階級の尊厳性が薄れて兵卒の士官に対する服従心がめだって低下し、抗命事件が頻発するのは、やむをえないことであった。
【諸種の悪習慣】
かれの信条によると、生まれながらの兵士というものはありえず、兵士とは訓練によってのみつくられるものだとおもっていた。
このためにこの航海中、たえず兵員の訓練をした。
かれはそのながい艦隊勤務の経験によって、兵士には勇怯がなく、あるのは、訓練による動作の型の堅弱のみであると信じていたし、さらにかれによれば兵士というのはいかに厳格な訓練にも耐えうるものだが、かれらの士気を失わしめるものは兵士の心理に無理解な上官と、一種の軍隊悪ともいうべき諸種の悪習慣であると思っていた。
ネボガトフの信望とこのやりかたは、航海の日数をかさねるにつれ、次第に水兵の反抗気分を薄らがせることに成功した。
【出典】「坂の上の雲/司馬遼太郎」「FOTOSEARCH」