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○安祥城址(永享12年畠山一族の和田親平が築城)安城市安城町城堀
文名3年(1471)京都で応仁の乱が起きている時、岩津城主「松平信光」が諜略を用い戦わず攻め取る(城の近くで若者に綺麗な着物を着せ、盆踊りを行い、城の武士が見物に出た隙に城を占領)信光の子供「親忠」を城主とした、以後二代「長親」三代「信忠」四代「清康」と続き、その後織田氏との境界線に近いこの城を巡り、大永4年(1524)松平・今川対織田の間で10年近く激しい戦いが続き、桶狭間の戦い後、信長と家康の間に清洲同盟が結ばれ、本拠を岡崎に移し、安祥城は廃城となる。
現在は本丸址に大乗寺、二の丸跡に八幡社がある。
文名3年(1471)京都で応仁の乱が起きている時、岩津城主「松平信光」が諜略を用い戦わず攻め取る(城の近くで若者に綺麗な着物を着せ、盆踊りを行い、城の武士が見物に出た隙に城を占領)信光の子供「親忠」を城主とした、以後二代「長親」三代「信忠」四代「清康」と続き、その後織田氏との境界線に近いこの城を巡り、大永4年(1524)松平・今川対織田の間で10年近く激しい戦いが続き、桶狭間の戦い後、信長と家康の間に清洲同盟が結ばれ、本拠を岡崎に移し、安祥城は廃城となる。
現在は本丸址に大乗寺、二の丸跡に八幡社がある。
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