先日出久根達郎氏の「本の数ほど学校がある」という講演を聴きに行った。
話の導入で紹介された稲むらの火は東日本大震災があったことに鑑み色々過去の震災のことについて調べていたので、稲むらの火については記憶が新しかった。
しかしもう一つのノンちゃん曇に乗るついての紹介では俺に想い出というか記憶というかこれについて記憶を辿って見ることにした。
どうしてノンちゃん雲に乗るの記憶があるかと言うことから説明していく、昭和22年俺が小学校4年生の時であった。担任は女(おんな)先生篠田信子さんとか言う名前であったと記憶している
その女先生が誰に出されるのか、そのはがきを盗み見したのである。もちろん記載されていた内容もどんなことであるかそんなこともわかるはずもなかったが、まだ10歳の坊主が何処でそのはがきを読んだかその記憶も定かでない。場所は多分職員室であったろう。まだ個人情報の云々初め親書の取り扱いも自由であった時代のことである。
近くに軍需工場があったので昭和20年この時代の俺の小学校は陸軍の駐屯地になっていたので終戦前の8月10日米軍の空襲を受け焼けてしまった。この時期にはそこから約3キロばかり離れた軍需工場の寮が2棟か3棟残っていたのでそこを仮校舎として授業が行われていた。
この時代の小学校の教師は教師の有資格者が足りず、いわゆる代用教員と言われる人が多かったように記憶する。しかし篠田先生は師範学校卒業の先生言うことであった。戦時中の師範を卒業されたのであったろう。もちろん現在ではその顔も思い出すことも出来ないが・・。しかしそのはがきで自分が信子と言うことで周りからノンちゃん、ノンちゃんと言われていたのだろうか、俺など小学校に入学以来戦時中の空襲から絵本など読む暇もなかったとの記憶があるが、この先生それまで何処で生活されていたのか、ゆったりとした生活であったようだ、そしてそのはがきにもノンちゃんですと言うことをさかんに強調してあったことの記憶がある。それ以来俺のノンちゃん雲に乗ると篠田先生の記憶は続いているのである。
既に70年にもなろうかと言う時期にこのノンちゃん雲に乗るを調査するとこの作品は1951年に出版された石井桃子さんの作品だそうである。そのあらすじは
8歳の女の子、田代信子(ノンちゃん)は、ある春の朝、お母さんと兄ちゃんが自分に黙って出かけたので、悲しくて泣いていた。木の上からひょうたん池に映る空を覗いているうちに、誤って池に落ちてしまう。気がつくとそこは水の中の空の上。雲の上には白いひげを生やしたおじいさんがいて、熊手ですくって助けてくれた。ノンちゃんはおじいさんに、自分や家族の身の上を打ち明ける。と言うことである。
これから考えるとこの女先生がノンちゃん雲に乗るを読まれたときはまだ雑誌として出版される以前のようである。このあたりにもこの女先生が何処で読まれたのか、何処で仕入れられたのか
は依然としてわからずしまいである。
その後このノンちゃん雲に乗ると言う話はついには俺には読む機会もなかったので、どうしてこの女先生がノンちゃんを自分に兼ねあわせているのかわからなかったが前記のあらすじを読んでこの8歳の女の子が田代信子(ノンちゃん)であり、自分の名前信子に兼ねあわせてノンちゃんですと言っていたのであると言う、このことだけは70年ぶりに氷解したことであった。
このブログには篠田先生の実名を出したがもし関係者が読まれでもされたときにはこんなこともあったんだと言う記憶にとどめて下さい。