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火曜日は週一で五高記念館に出てきた。二十五日が個別試験と言う事で受験生が下見に訪れていた。受験生みずからというより教員、父兄の姿もあり担当の方も世話らしい感じである。歴史は変わると言われているように試験の形態も随分変化してきたと思われた。
記念館ではまた大工仕事が行われ第五展示室を改修するとか、予算があればしっかりしてくださいと言うばかりである。五高卒業生等一般公開にタッチした人々も全くあの世とやらに行ってしまわれ、昔の想い出も写真で見るだけになってしまった。
館内案内もタッチパネルが設置され見学者に取っては自分で知りたい部屋の部屋の部分を切り取って見学せねばなるまいが、タッチパネルではその内容も教えてくれるし、管理者一同も楽になったことは否めない事実であろう。
俺は昔の資料の中から本田不二夫先生の漱石と熊本教育という文書に遭遇したのでそれを転載した。時間のあるだけで転載したのであとは来週でも転載して見たい。以下昨日の分を掲げる。
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漱石と熊本教育
夏目漱石が三十歳の若さで、熊本の旧制第五高等学校の教授であったころ、第七回開校記念式典(明治三十年十月十日)で教員総代として述べた「夫レ教育ハ建国ノ基礎二シテ、子弟の和軸塾ハ育英ノ大本タリ、師ノ弟子ヲ遇スルコト路人ノ如ク弟子ノ師ヲ視ること泰越ノ如クンバ、教育全く絶えて、国家ノ元気沮喪セン。」の文言で始まる祝辞は、現在も人口に絵短している。そしてそれは曾て漱石が旧制一高の学生であった頃、次に述べる熊本出身の四指導者によって、親しく熊本教育の薫陶を受け、その真髄を代弁したものとして感嘆のほかはない。
明治五年の『学制』に始まった近代教育は、欧化主義の思想のもと、知育に偏し、個人的立身出世主義に傾いていたのに飽き足らず、肥後文教の伝統と、水戸学の長所を併せ修めた佐々友房、高橋長秋ら若き熊本城下の人士は西南の役後「方今の学、患器を作って人を造らず」と堂々と正面から批判し、敢えて時代の逆流に立って、私立濟々黌を創立明治十五年二月十一日郷土の師弟に徳体知三育併進『三綱領』による全人教育を施し。いわゆる済々多士の育成を目指した。即ち「道徳は本体であり、知識は作用である。」と情意の淘治を重視し、道徳と科学の併進を強調し、また『教育は事務にあらず感化なり。教育感化の実を挙げんには、決して生徒の多きを望んではならぬ』と師弟の愛情と信頼を教育の出発点とした着眼は、まことに時流を抜くものがあった。
この文書は全国五高会報に掲載されたものである。