次男坊夫婦が墓参りに来た。結婚以来十年も過ぎていると思われるが子供が出来ない。これもよかろうそのため嫁さんは給与がいいところ、いいところを渡り歩いて稼いでいるようである。時にはハローワークで探していることもあるようだ。良くいいところがあるねと笑っていることにしている。
次男はまじめに既に20数年にもなろうか?空港ビルの職員として働いている。そのため嫁さんの方は暇つぶしで常に家で留守番だけでは面白くないようで、働きに出ているようである。我が家には年にⅠ~2回しか出て来ない。こっちに迷惑をかけることでもないので、とても爺・婆がいろいろ干渉する必要もない。夫婦二人であれば病気さえしなければどの様にしても生活は出来るようである。
今日は年末も28日一応正月の準備もしなければならない。我が家の墓掃除は12月の当初に終えているので必要はないが、神棚を掃除して榊の枝に入れ替える。仏壇もあるのでこっちの方は花を新しいものに変えた。この神仏混合も明治以来の祖先から続いているもので困ったものである。触らぬ神にたたりなし のたとえがあるように神棚の掃除も年に一回である。今年もまた宮総代と言って日吉神宮のお札?を売りに来ることだろう。
ここでは五高時代の名称が教えてくれるものとして五高に関することを掲載して見たい。
戦後の学制改革により旧制第五高等学校が閉校し、熊本大学が創立されて既に六十有余年が経過している。それにもかかわらず、五高時代名称がこの二十一世紀になってなお使われているということは、まさに驚くべきことではあるまいか? 例えば附属図書館の広報誌は「東光原」と云う。この広報誌の名前はつとに知られているが平成二十年度からは熊大生を対象とした文学賞(「東光原文学賞」)も創設された。そして五高記念館の広報誌ニューズレターは、第3号から五高時代の校友会誌の名称「龍南」を用いて発行されている。
最近の教職員・在校生諸氏には知らない方も多いだろうが、五高時代の名を今に引き継いでいるものを列記してみよう。学生会館は「東光会館」、熊大グラウンドは「武夫原」、それに黒髪北地区の正門は通称「赤門」と云う。この正門から中門にかけての道路を「サインカーブ」と呼び、さらには「知命堂」という建物もある。五高時代の「習学寮」、「瑞邦館」、「済美館」、「猫橋」等々の名称は建物や、遺蹟もなくなったので、サインカーブ西側の「植物園」共々いつしか呼ばれることもなくなってしまった。しかし馴染み深い五高時代の名称を越える名前はなかなか見つからない様である。
次男はまじめに既に20数年にもなろうか?空港ビルの職員として働いている。そのため嫁さんの方は暇つぶしで常に家で留守番だけでは面白くないようで、働きに出ているようである。我が家には年にⅠ~2回しか出て来ない。こっちに迷惑をかけることでもないので、とても爺・婆がいろいろ干渉する必要もない。夫婦二人であれば病気さえしなければどの様にしても生活は出来るようである。
今日は年末も28日一応正月の準備もしなければならない。我が家の墓掃除は12月の当初に終えているので必要はないが、神棚を掃除して榊の枝に入れ替える。仏壇もあるのでこっちの方は花を新しいものに変えた。この神仏混合も明治以来の祖先から続いているもので困ったものである。触らぬ神にたたりなし のたとえがあるように神棚の掃除も年に一回である。今年もまた宮総代と言って日吉神宮のお札?を売りに来ることだろう。
ここでは五高時代の名称が教えてくれるものとして五高に関することを掲載して見たい。
戦後の学制改革により旧制第五高等学校が閉校し、熊本大学が創立されて既に六十有余年が経過している。それにもかかわらず、五高時代名称がこの二十一世紀になってなお使われているということは、まさに驚くべきことではあるまいか? 例えば附属図書館の広報誌は「東光原」と云う。この広報誌の名前はつとに知られているが平成二十年度からは熊大生を対象とした文学賞(「東光原文学賞」)も創設された。そして五高記念館の広報誌ニューズレターは、第3号から五高時代の校友会誌の名称「龍南」を用いて発行されている。
最近の教職員・在校生諸氏には知らない方も多いだろうが、五高時代の名を今に引き継いでいるものを列記してみよう。学生会館は「東光会館」、熊大グラウンドは「武夫原」、それに黒髪北地区の正門は通称「赤門」と云う。この正門から中門にかけての道路を「サインカーブ」と呼び、さらには「知命堂」という建物もある。五高時代の「習学寮」、「瑞邦館」、「済美館」、「猫橋」等々の名称は建物や、遺蹟もなくなったので、サインカーブ西側の「植物園」共々いつしか呼ばれることもなくなってしまった。しかし馴染み深い五高時代の名称を越える名前はなかなか見つからない様である。
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