写真は当時の絵葉書より
整備
土地の整備に関しては、開墾、測量等々も全て全校学生職員の奉仕協力作業で行われた。
建物は龍南会の直接工事として木造平屋建て約百坪の建築工事が行われ、半年間の期間を要して完成している。
建物は昭和十五年二月十一日当時の紀元節二千六百年記念として、龍南報国団(龍南会が改名)から第五高等学校に対して贈呈式が行われた
しかし十時校長より添野校長への交代があり、当初の計画の阿蘇登山の足場はその性格を代え、学生のための精神修養の場、修養道場として開場した。
その後は五高生の修養道場として又内牧町民等の社会人の修養、研修の場として推移している。
阿蘇道場の建設経過については続習学寮史四十五頁から四十八頁まで詳しく照会してある
顛末
平成三年五月頃、私の阿蘇研修所とのつきあいも三期目に入っていた。「今から阿蘇に行くので、トラックを出してくれ」と係員にたのむ。時刻は午前九時。研修所までトラックで約一時間の行程。助手席で揺られていると頭の中をことばが駆けめぐり、つい口からこぼれ出しそうになる。
「今後の管理をどうするのか?解体してしまうか?大学として態度をはっきりさせてほしい」研修所が無人状態になってすでに三年。去年は工学部土木科水理研究室が使いたいと言ってきたので使って貰っていたが、研究者や学生の中で期間中に一度でも阿蘇へ行った者があったか?「今年は使わないので、後の管理はよろしく」と、要するに持てあましたということだろう。そんなわけで、今年から通常の点検・管理は警備会社に依頼している。一日に一回は巡回しているはずだが、先日などは浮浪者らしき人物が建物内に入り込んでいたそうだ。「その辺りの管理に遺漏のないよう努めるのがガードマンさんだろう?」大学にとって、というか直接責任を与えられている我々管財係にとって、この研修所はまったくのお荷物になってしまった。失火でもしようものなら、それこそ目も当てられないことになる。経理部をはじめとする管理部門の上層部には、今後の研修所のあり方について問題提起は何度も行ってきたのだが、「そうか、検討してみよう」「解体については、五高同窓会の方にも了解してもらわねば」等々の言葉が返って来るのみ。いつも尻切れトンボの会話に終始してしまう。我々は、週に二回は阿蘇に赴き、研修所に少なくとも二~三時間は滞在しているのだが、暖かい季節を迎えても、この周辺で人影を目にすることは一度もない。
その頃、国道五十七号線の立野の上り口沿いにサミットという名の一寸洒落た食堂があった。この店はなんでも下関の業者が出しているチェーン店とのことで、我々は阿蘇を訪れるたびに利用させてもらった。世界の主要国の首脳が集まって世界平和について話し合うとか、本当のところは知らないが、その名前を拝借してサミットと名づけたそうだ。
もっとも我々はいつでもただ定食を注文するばかりである。ビールでも飲みたい気分の時もあるが、なにしろ公用車の運転中なのでそういうわけにはいかない。いつの日か遊びにくる機会でもあったらと思って、そこは我慢する。
研修所の前を通っている道は、今では大きな石が転がっていて雑草が茂り昔日の面影さえないが、元はといえば旧細川藩が参勤交代に使っていた、正真正銘の豊前街道の一部である。往時、五高の学生連中は、内牧から約四キロの道のりを歩いて来たのだ。研修所の裏手には彼らの登った兜岩と呼ばれる小高い山があるが、惜しいことには、つい忙しさに取り紛れて登る機会を失ってしまった。
研修所の隣には衆議院議員松岡利勝氏のお屋敷がある。研修所の電線はこの屋敷の電柱から引いている。自然、我々は利勝氏のお父さんと心安くなって、来るたびに挨拶に寄ることになった。ある時、彼はこう言った。
「俺は朝から内牧の温泉に行くのを楽しみにしとっとたい…。近頃、大学はいっちょん来なはらん…。今日はヨメが挨拶に来とらすとたい。どぎゃんバカ息子でも衆議院議員は衆議院議員だもんな」お父さんは自分の息子を卑下して話されているが、この阿蘇の田舎でも親同士の間ではそれなりに対抗心があり、こどものの背比べをしているようである?「お父さん、誰でも簡単に衆議院議員になれるものではありませんから」と答えておく、研修所が無人化したので不要になった電源を切ることにしたが、建物の今後について、人ごとながらお父さんは心配してくれていた。
熊本大学阿蘇研修所は阿蘇郡阿蘇町三久保芹の口(当時)にあった。私がはじめてこの研修所と関わりを持ったのは、管財係の主任であった昭和五十六年頃のことである。
「今から阿蘇に行ってみるか?トラックを出しておいてくれ」と言ったのはH係長。言われたのは私。
当時、研修所にはS・Sという管理人が夫婦で住み込んでいた。この人は親の代から、もう四十年以上もここに住んでいるのである。五高道場の時代からである。ところが自分自身は別に下の道路沿いの研修所への上り口の辺りに自宅を構えているという?
「研修所の石碑が置いてあるところがあの人の家ですよ」と教えられたことがある。この管理人我々に対して、自分はお前たちから雇われているのではないぞ、という態度で向かってこられたのには常々閉口していた。だから、H係長が異動した際、後任の係長に実情を知ってもらおうと案内したときに、管理人が出した高菜漬けを「美味しい美味しい」と喜んで食べたのには、苦笑というよりも少々バカらしいような感じがしたものだ。この係長は退官後間もなく亡くなられたように聞いている。
昭和五十八年から六十年にかけては、学生部の総務係長を命じられたために、ふたび研修所と関わらざるを得なくなった。S・S管理人との縁も続くことになる。
彼は当然、定員内職員である。俸給支払日には遠隔地送金でわざわざ肥後銀行内牧支店に振り込んでいたが、一度たりとも「お世話になります」と言われたことがない。資金前渡出納員としての立場上、給与の支払いはそれこそ仕事の範囲内ではあるのだが、一回くらい礼を言ってもバチは当たらないだろうと思っていた。
だが、そんな彼でも役に立ったことがある。それは昭和五十九年度に行われた国土調査である。何しろ山の中の境界については詳しかったので、二人して周辺に繁茂している竹林の中に分け入り境界標識の確認作業を行なった。「役に立った」といっても、後にも先にもそのくらいのものだ。
珍しく熊本が大雪に見舞われたときに、S,S管理人はご苦労にも、上り口から研修所までの道を内牧町から借りてきた除雪車で確保したという。たしかに自分たちの生活が困るので除雪作業をしたことは理解できるが、その代金を大学に払ってくれというのにはちょっと困った。
「こんな季節に今どきの研修者が来るわけがない」のだ。そもそも内牧町が除雪車使用代金の回収を当然のことしているのと同様に、国立大学は仮宿舎料の徴収を当然のこととして行わなければならない。
研修所の土地建物は昭和四十年以降国有財産となっているので、管理人が現に住んでいる建物は仮宿舎ということになる。
大学構内にある施設、たとえば知命堂の管理人も仮宿舎料をキチンと払っている。といったことを説明したところ、「俺は家賃まで払ってこんなところにはおらん。管理人がいらないのなら後はどうなるか」と反対にすごまれてしまった。事務的な事情を話してやったのに、頭からこっちが脅されるみたいな感じになったのにはいささか参った。私は財務局からの通知内容をそのまま伝えただけだったのだが。今は利用者もいなくなってしまったので管理人もいる必要がないだろうと思っていたのだが、それを口にするわけにもいかない。五高時代、昭和十七年の龍南会日記に彼の両親だろうか老人夫婦を道場の番人として正式に雇ったと記されている。家賃は無料だったらしい。だからといって、今でも無料でいというわけにもいくまい。結局のところ、心配したのは担当者である我々ばかりで、ほとんどの関係者は知ったことかという態度で終始した。
いつの時代でも同じだろうとは思うが、役人というのは責任を問われることは一切しない。ただ自分の仕事の範囲内をひたすら黙って続けていくことを本分としているので、改革はまず望めないとあきらめるべきなのか。
昭和五十九年末頃には、「来年三月には定年退職なので、関係の書類をいろいろ出さなくてはならないから、大学の方へ一度下りてきます」という話だったので、書類を整えて待っていたが、最後までとうとう来なかったのにはこちらも向かっ腹が立った。彼が下りてきたのは三月末に開催された退職者の集まりのときのみであった。管理人の話はこれくらいにして、最後に阿蘇研修所の歴史を簡単に振り返っておく。
昭和十四年七月のことである。その頃、龍南会の総務であった武藤貞英と福山敏郎は、一高が富士登山の足場として利用していた山中湖畔の建物をモデルに、五高の阿蘇登山の足場となる施設建設を校長に提案した。それに対して校長は、趣旨はともかく計画に具体性がなく、特に資金と用地の問題が大きいと難色を示した。そこで両総務を中心とする建設推進メンバーが関係者の間を奔走することになった。
その結果、資金面については、高森教授が尽力して、五高卒業生である増永茂己・吉村常助・藤井利七からの一時預かり金六千円を元に、五高阿蘇道場建設委員会(委員長は当時の熊電社長中島為喜)が組織され、全国の同窓生に対して寄付金の募集が行われた。また用地については、児島内牧町長と直接交渉を行ったところ、町当局その他からの賛同も得られ、『目的以外に使用した場合は返還』という条件つきながら、二十五年間にわたり約一万坪の町有地を無償で借用できることになった。こうして問題解決のめどが立ったので、さっそく建築工事に取りかることになった。土地の開墾・測量等の基礎作業はすべて全校生徒や職員によるボランティアで実施されたということである。残る建物については、龍南会(後に龍南学徒報国団と改名)が施主となり木造平屋建て約百坪がほぼ半年間の工期を要して完成した。そして昭和十五年二月十一日に、皇紀二千六百年を記念する形で龍南会から五高に寄贈された。ただし、当初考えられていた阿蘇登山の足場という役割は、校長が交替したことも影響してか、いつの間にか生徒のための精神修養の場へと様変わりし戦時体制下、生徒や内牧町民の修養・研修の場として使われたり、またサツマイモ栽培等による食糧増産の場に転用されたりしながら終戦を迎えることになる。
戦後、五高が昭和二十五年の教育制度改革に伴って閉校し熊本大学が発足するともに、阿蘇道場は熊本大学阿蘇研修所となり、その管理は熊本大学生部に移された。
一方、用地の引継ぎはや遅れて、昭和二十九年、阿蘇町長と学長の間で、阿蘇町がその目的を達成するための真に必要最小限の土地と認めた面積を提供するという内容の、『熊本大学が使用中の阿蘇道場敷地を無償提供する覚書』が交わされた。さらには、二十五年間の借用期限が近づいた昭和三十八年、学長から阿蘇町長に『昭和二十九年の覚書により阿蘇研修所敷地を寄付願い度き件』とする願出書が提出され、これを受けた阿蘇町議会が「取扱について問題がなければ、教育の場として処分する(町所有の不動産の処分)」との議決を行なった。
そこで熊本大学は、寄付受入に関わる国有財産法上の事務手続きを行ない、昭和四十年五月、晴れて台帳面積二四〇四坪(七九四九、三二㎡)の用地が熊本大学の敷地の一部となった。
そして昭和五十八年に実施された国土調査により、翌五十九年十月二日付で総面積八一七六、五二㎡が確定登記されたのである。実はこれらによって、五高時代からさやかれていたように、約一万坪と公称されてきた面積の数値がまったく根拠のないものであったということが確認されることになった。このいい加減さは、まさに古き良き時代のこととでも受けとめるほかはない。ともあれ、このようにして、五高の精神修養の場から熊本大学の厚生補導施設へと名実ともに移り変わったが、
それでも昭和三十~四十年代の施設利用者は、五高の流れを汲む法文学部生を中心としての利活用が盛んに行われていたのである。しかし、モータリゼーションの進展や九州地区国立大学共同利用研修所が大分県の久住高原に新設されたことなどの影響から、昭和五十年代になると、老朽化した建物と旧態依然とした設備を抱える阿蘇研修所の利用者数は激減の一途を辿ることになった。
昭和六十年代に入ると、公務員定員削減の一環として定年退職した管理人の補充が行われなかったために、すでにほとんど使われなくなっていた研修所は無人の状態となり、管理も学生部から経理部管財係に移りその後管財係から学内各部局に研修所の有効利用を働きかけたが、工学部土木工学科が「火山灰土斜面の水文学的研究」に使用しただけであった、活用案として取りざたされたものに、薬学部の「薬草園敷地」への転用や、阿蘇町の「海外の青少年のキャンプ地」としての利用などがあったが、結局、諸般の事情によりすべて断念された。平成三年、施設の老朽化も一段と進み、このまま放置しておくと不測の事態も起こりかねないとの判断から、ついに解体処分が決定された
こうして平成四年三月をもって、阿蘇研修所は五高阿蘇道場以来の五十三年にわたる歴史の幕を閉じることになったのである。なお、解体撤去後の敷地は更地のまま残されていたが、平成十二年に政府の「国有地の狭小地・未利用地等の処分」を図るという政策により大蔵省九州財務局より売払い処分が行われた。 東 孝治 著
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