五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

熊本城の古城に仮住まいしていた時から歴史は始まる

2010-03-21 03:56:39 | 五高の歴史
                        二の丸公園から見る西出丸長塀
今週の土曜日に熊本城観光案内の依頼を受けた。お客さんは昭和十八年五高卒業の皆さんという事である。昭和十八年卒といえば八十五~六歳を超えた方々で卒業後既に七十年になろうか、十一日に旧制高等学校の教育から学ぶものとして掲げたが、今度の皆様は全くそれを実践されているように感じる。午前中まで五高記念館で色々自分等の行事を行い熊本城の見学という事であるが、熊本城と五高の関係をどれだけご存知だろうか、話には聞かれた事もあろうが、詳しい事はご存知でないかと思うので観光案内に以下のようなことも併せて説明してやろうかと考えている。
第五高等学校と熊本城の関係について見ると五高の創設は熊本城の古城に仮住まいしていた時から歴史は始まるのである。初代校長野村彦四郎は乗馬が得意で、官舎から度々遠乗りを楽しんでいた。野村校長は熱血の人で眼光爛々迫力に満ち国士教育のためには、果断、猛進、泣くに非ざれば怒るしかし生徒に対する愛情は誠に細やかであったという。乗馬教練を施し、弓道場を設け、野球、蹴球、その他の運動器具も整備し、器械体操は最も盛んに行われた。乗馬部が出来たのは全国の高等中学では最初であった。
古城の門を入れば左は旧熊本旧藩士の邸宅跡で、曾て警察署に宛てられたもので、その構造は寺院二つ並べたような広壮な建物だった。それに長屋門を加え、これを教室、職員室、寄宿舎、寝室、食堂などに割振りした。運動場には、右側の旧県庁跡を用いた。この一帯、三百年来の「寂び」をたたえ、庭園には古木、花樹繁茂して、高燥、幽静の境域であった。
熊本城の西南に突出した一出丸を古城(ふるしろ)という。
この地域には所謂古城百年史が展開されていることはもとより明治時代には医学校、洋学校など設置されていた。その後は熊本県庁なども設置され由緒ある史跡地である。
古城の真ん中を東西に載る空濠があり、この空濠から北半分の一郭は師団長とか参謀長とかの官舎であり、その南半分で明治二十年十月一日第五高等中学校は産声を挙げたのであるといった事を説明してやりたい(tH)


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