五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

火曜日は週一の記念館への出である・

2015-06-10 05:02:02 | 五高の歴史
七時二十九分都市バスで上近見を出発し蓮台寺、二本木、熊本駅、河原町を通過して、交通センターで産交大津行きに乗り換える。立田口の大学は方角は乗換が必要である。何時もの乗客の顔を眺めていると同じように出る人もあ。近頃は蓮台寺から乗車して工学部の裏門から入っていた人は見えなくなった。研究者でもあったのか?俺などよりまだ若いと言える人である。記念館では合変わらず昔の資料をあせっている。

上の郷への帰りは午後は二時には鶴屋前で乗り換え国丁行きのコースで帰っている。今まで何年かはセンタ-で松橋行きに乗り換えていたが、通町筋鶴屋前の方が大津方面と健軍方面からのバスの便が多く数が多い、その上同じ駐車場であるのでバスの時間を待つだけでよい。記念館では先ごろから転写していた赤星陸治氏の遠山院長の想い出を転載していたのでそれを掲載して見る。


遠山院長の思い出                          赤星陸治
故遠山院長と私とは、もともと同村に生れ、年から云えば私の大きな兄の様な関係で、随分親しくもあり、しかも此の頃は親同士の様な近い親類関係になっているので、他人行儀の思い出を語る訳には行かぬが、而しそんな事に頓着なく、子供の時分からの同郷の先輩としての思い出を、率直に語ってみたいと思う。
子供時代の遠山氏は、私達よりズット年上の、云はゞ私達の餓鬼大将であった。 
当時、夏の暑い時分に、氷川に泳ぎに行っては、よく川を挿んで川向こうの村の腕白者等を相手に、石合戦を遣ったものだ。其時分の遠山しは、我々鏡方面の腕白者の総大将として、敵方にも鬼将軍の如く其名を知られ、「それ参良が来たぞ」と云って、皆恐れをなして逃げたものだ。そんな風に子供の時分の遠山氏は随分喧嘩も強く、どちらかと言えば、きかん気の強い豪傑肌の少年であった。
十二三歳の頃、一つ二つ年上の内田康哉さん、江口某さんの三人で岡田松生さんに連れられて京都の同志社に入り、間もなく内田さんと二人で同志社を逃げ出して熊本に帰り、熊本の英学校に入ったり、長崎の鎮西学館に学んだりして居られたそうだが、其の時分の消息は、一向に分からぬ、たゞ私の頭には、私の七つ八つの時分に、遠山氏が鏡町の餓鬼大将として、猛威を振るっていられたことだけが確かに記憶に残っている。
それから私が十三四になって、小学校でも上級の生徒になった時分に、当時私共の郷里鏡町では、岡田松生さんの英語学校が出来たり、故濱田康喜さんや、菊地謙譲其の他の諸先輩、それに沼田則英、野口末彦等の小学校の先輩も加わって熊本の徳富蘇峰先生の大江塾などと相呼応し、新思想の教育が流行して、自由民権の思想や、基督教の伝道や、自由教育と云った風に、中々進んだ説が唱えられた。その時分熊本から澤村重雄氏、水俣から渡瀬儀五郎氏などがやって来て、全く我々と一緒に鏡町の人間になって我々を指導された。そんな時分に遠山氏も、時々どこからか帰省して来て、大に基督教の宣伝や、自由民権論の啓発に勉められた。遠山氏が、自由党に其の人ありと知られた、故田中賢道氏の令妹と結婚して、夫婦で洋行などして、皆の羨望の的になったのも、其の時分の事であった。要するに遠山氏は、子供の時から壮年時代に至るまで、我々の郷里の鏡町で、皆の敬慕の目標となっていた。
遠山氏は、独り我々郷党の子弟から畏敬されていたのみならず、他郷でも随分敬慕されていた。特に長崎では寧ろ郷里以上の徳望があった。その一例は、長崎の鎮西学館時代の生徒であった私の友人の賀来佐賀太郎君や中尾力麻呂君などは、常に遠山氏を生き神様の様に噂していたことを覚えている。
その後遠山氏は、熊本の五高に小泉八雲や夏目漱石等の有名な文豪の跡に、英文学の先生になり、学生監を兼ねたりして、今の農林大臣の後藤文夫氏や、三菱銀行の山室宗文氏、其の他幾百の秀才を教育し、皆から親の如く慕われながら、一方に日米の基督教団を動かし、日本個有の大和魂と基督教の信仰とを打って一丸となし、氏の理想の教育学園即ち九州学院を創設し、偉業を後世に残された。私は斯く遠山氏の一周年祭に当り、氏の生い立ちから今日までの事を追憶すると、「豫言者故郷に貴まれず」と言う言葉もあるが、遠山氏は故郷に貴まれ他卿に貴まれ、生涯貴まれ通しに世を送り、且つ又後世に光と幸福とを残して死んだ立派な偉人の一人と思うて、心密かにこんな人と近親となったことを大に光栄として喜んでいる次第である。







赤星陸治
明治7年(1874)8月7日~昭和17年(1942)3月28日、実業家,俳人,号水竹居。八代郡上鏡村(現鏡町)の下山家に生れ、のち文政村宝出(現鏡町)の赤星家を継ぐ、五高、東大法科卒。三菱入社後,小岩井農場長、さらに三菱地所部長(三菱地所株式会社社長)を勤め,丸の内村長といわれた。禅,ゴルフのほか佐々木信綱に短歌を学んだ。大正12年(1923)丸ビルにホトトギス発行所(高浜虚子)を置き,虚子と相年の師弟として俳句を作る。故郷の家号水竹居を俳号とした。ホトトギス同人として文章にも長じ『虚無僧』『玉とニー』『虚子俳話録』の著作がある。熊本の俳誌『阿蘇』雑詠選者でもあった。昭和17年、結跏趺坐のまま亡くなった。のち『水竹居句集』刊行。(熊本大百科事典)


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