五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

想い出の記録から雲仙に遊ぶ

2015-10-21 04:48:06 | 五高の歴史
忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ、のイントロで始まるラジオドラマ放送が人気を博して女風呂がガラガラになると評判になったのはもう半世紀以上の昔になるか、
たしか雲仙普賢岳で映画ロケが行われていたと言うことも全く忘れてしまっていた。これはテレビなどない時代でラジオが唯一の娯楽の伝達媒体であった。

今まで数回雲仙岳仁田峠も訪問したことはあったが、真知子岩ことなどまったく気を止めたことなどなく眺める気も起きなかった。それは平成2年から始まった普賢岳の噴火の情報伝達の手段がテレビの時代になりその印象が余りにも強烈であったからかもしれない。

この普賢岳の噴火は連日のテレビ報道で現地の姿がそのままの姿でお茶の間で見られた。こんなことを考え雲仙バスツアーに参加したのであったが、オーシャンアローでの島原航路は三十分そこそこそれは海の高速道路を走っているので船旅の気分も味わう暇もなしと言うことで、世の中は日進月歩で発展していると言うことを改めて感じたことは私一人ではありますまい。


五高の歴史ではこの有明海はボートの練習場であった。それを公開すると、江津湖の艇庫を出発し緑川を下り川口から有明海を横断し島原へ、このボート練習は既に明治の三十年代から行われていた。しかし半死半生の体で島原に到着したものもあった。
特に大正七年に著された上田沙丹氏の「恐ろしき一夜」を転載すれば(前略) 貧しい夕粥もすんでしまった。見渡せば、満潮の水は洋々として舷を叩き、幽(かす)けき残照は波に入って暗き紫にゆれる。泊まれる船の遠き烟。艇をうつ波の小唄。檣(ほばしら)の影。青き月光。 約二十分間の休息の後で、私達はいよいよ有明海の浩涙を横切って危い航路を勧めるのだ。月は光を帯びて寧ろ物凄く、目ざす島原の山は巨人の冷笑するごとく、傲慢そうにうす藍色の夜の帳の中に聳えている。濤声鞺鞳とうなればボートマンの血潮ようやく躍り、淡い霧たちこめた水のかなた、天上の星の青くふるえる半獣牢人の瞳の瞬きを思わせる〈中略〉思えば、我等のこの企ては余りにも大胆であった。無謀であった。二十余名の一行の中には唯一人の島原への航路を経験したものは無かった.風勢や潮流などに対して、誰一人として心を配つたろう。これに加えて有明海の潮の満干の差は十七八尺に及んで、日本一といわれるだけ、さなぎだに船路は危うい.我等のささやかな湖水の上に競漕用に造られたる一丈にも足らぬ艇は渦まき狂う海峡の干潮のはげしい潮流のなかえ乗り入れたのではないか、剰さえは今宵そら寒い秋の嵐の夜である。一点の漁火さえ燃えぬ、荒海の上、敢えてしたのは自分たちの無謀を悔いながら不眠不休の努力を続けるのも致しかたなや。譬(たと)ゆれば かの理想の影の如く、こげども漕げども近づきがたきは朧々夢のような島原半島の影である。近づくと云わんより、寧ろ私達の努力の凡ても、頼りない小艇とともに、天草島のかなたに〈後略〉

世の中の発展に伴い同時に自然もたち止まることを知らない雲仙岳は今年も秋の歴史を刻んでいた。仁田峠の紅葉も麓から頂上へとそのうちに気温がさがればもっともっときれいに変色することだろう。しかし普賢岳の火砕流に埋もれたは止まったままの姿を残している。自然の輪廻は地獄めぐりの温水をそのうちに涸らしてしまうのではなかろうかと心配する、これも自然の摂理かもしれない。

雲仙岳を後ろに眺めて船の周囲に飛び交う無数のカモメと遊んでいるうち気が付いたときには何時の間にか熊本の地で友達とちびりちびりと慰労を行っていた。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿