現代では20歳になり成人式を迎えると一人前の大人として世間から認められ酒を飲むことは自由であるが、明治時代では成人式というものなく酒を飲むことは20歳でも自由ではなかった。特に高等学校の生徒では今で言う20歳未満の未成年も多かったし、また成年に達していた生徒もあった。そのため五高の寄宿舎でお酒を飲むことは茶飯事であり古城の時代に既に禁酒を行うことが検討されていた。
明治33年桜井校長は就任にあたって第一に手をつけたのが禁酒令の実施である。五高に赴任する前は相当の酒豪であったというが、ふとした動機でぷっつり酒をやめ、其の後は熱心な禁酒党になったと言う。酒による幾多の失敗もあったようで、酒の害を知っていたからであるとも言われている。五高の禁酒令は、その体験から発案されたものであり、それだけに生徒に対して親切の籠った手段であったが、強制的な仕打ちとして非難される面が多かった。
第五代校長桜井房記は明治21年(1988)2月12日第五高等中学校教諭、兼教頭として赴任して23年教授に昇任している。明治30年の第五高等学校工学部の設置に伴い初代主事も兼ねた。その間には第3代校長嘉納治五郎、第4代校長中川元の下では立派な女房役振りを発揮した。明治33年中川校長の転任に伴い、横滑りで第5代校長になった。明治40年に退官するまで、実に18年に及ぶ五高教官生活であった。
明治34年(1901)9月の入学式では「本校は自今、生徒の飲酒をやめさせる方針である。・・・・」と訓示し早速に新入生総代に四か条の宣誓文を朗読させた上で入学者各人に署名させた。実施の背景には酒の上での不祥事、特に寮運営について、鹿児島出身者と熊本出身者とが対立していたこと等も一つの原因だったようだが、禁酒令をめぐっては幾多のナンセンス劇が飛び出した。主旨は正当なものであったが、実施方法に無理がありすぎたのか予想したほどの成果は上がらなかった。(五高五十年史・習学寮史参考)