gooブログ ものがたりの歴史 虚実歴史

陰暦と陽暦…幕末編<TeaCupより

平成31年BLOG

2019/3/28  19:47 「陰暦と陽暦…幕末編

吉良上野介は1702年没か、1703年没か。 は1827年誕生か、1828年誕生か。坂本龍馬は1835年誕生か、1836年誕生か…というような問題。

Y!Blog>陰暦の元号と陽暦の西暦
2018/1/13(土) 午後 2:46

 
嘉永から安政への改元(1854年/1855年)
嘉永7年11月27日に改元。普通、安政7年は1854年に当たるが、改元の時はグレゴリオ暦1855年1月15日に相当する。
 
千葉周作(1793年/1794年~1855年/1856年)…生まれた年に2説あり、没年が陰暦と陽暦でずれる
寛政5年(1793年)または寛政6年(1794年1月1日 - 安政2年12月10日(1856年1月17日)
 
徳川慶喜(1837~1913)が第15代将軍になった年(1866年/1867年
孝明天皇(1831年~1866年/1867年)…没年が陰暦と陽暦でずれる
王政復古(1867年/1868年)
徳川慶喜、慶応2年(1866年12月5日正二位権大納言右近衛大将に叙任。同日、征夷大将軍就任。
1867年(陽暦)の場合、1月10日慶応2年12月5日)、 徳川慶喜が第15代征夷大将軍に就任。
1867年(陽暦)1月30日(慶応2年12月25日)、孝明天皇崩御(発表 慶応2年12月29日)。
1867年(陽暦)2月13日(慶応3年1月9日)、睦仁親王践祚(明治天皇)。
幕末の大政奉還は慶応3年10月14日、陽暦で1867年11月9日。
慶応3年11月15日新暦1867年12月10日)、坂本龍馬が暗殺された。
続く王政復古は慶応3年(1867年)12月9日、陽暦で1868年1月3日になる。
陰暦では大政奉還と王政復古は慶応3年の末に続けて起こったことになるが、陽暦では大政奉還と王政復古の間に年が変わっていたので、西暦では大政奉還は1867年、王政復古は1868年になる。
和暦:慶応3年10月、大政奉還→11月、龍馬暗殺→12月、王政復古→慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦い
西暦:1967年11月、大政奉還→12月、龍馬暗殺→1968年1月、王政復古→鳥羽・伏見の戦い
 
リテラシーがないので、日本史の教科書において、江戸時代以前に起きた出来事の年が旧暦、新暦どちらで書かれているかが分からない
 
新暦導入以前は西暦と元号は一対一で対応しないと思うのだけれど、「西暦〇年(元号□年)」みたいな記述はそのあたりのことをちゃんとおさえているのかな
 
徳川家康が1542年生まれなら陰暦、1543年生まれなら陽暦、 水戸光圀が1700年没なら陰暦、1701年没なら陽暦、 西郷隆盛が1827年生まれなら陰暦、1828年生まれなら陽暦、 坂本龍馬が1835年生まれなら陰暦、1836年生まれなら陽暦が採用されていることになるでしょう。
 
水を差すようだけど関ヶ原の戦いは、和暦では慶長5年9月15日、西暦では1600年10月21日。だから418年前の今日関ヶ原の戦いがあったわけではないよ。 
 
陰暦と陽暦の日付の違い。徳川家康の生年、水戸光圀の没年、大岡忠相の没年、平賀源内の没年、西郷隆盛の生年、坂本龍馬の生年、慶喜が将軍になった年、王政復古の大号令など、疑似西暦(元号表記をそのまま西暦に置き換えた結果)と陽暦の西暦が異なる例は多い。
10:34 - 2018年9月17日(旧暦平成30年8月8日)

@jcast_news J-CASTニュースさんのツイート
「新元号」来週1日午前11時半ごろ発表!あなたは西暦派?元号派? 
 
 13:04 - 2019年3月29日 
 
長嶋一茂は太陰暦と太陽暦の話を全く理解できないようだった。
20:46 - 2019年3月29日     
└→TeaCupより>羽鳥慎一のモーニングショー、元号の話題 | 虚実歴史のブログ (ameblo.jp)/
 

前後一覧
2019年3月

/令和4年7月/(GooBlog)

 

関連語句

/「陰暦と陽暦」の検索結果 - gooブログはじめました!/

元号 西暦 陰暦 陽暦
大政奉還 150年 王政復古 150年 疑似西暦(twitter)
元号と西暦のズレに悩 討ち入り 西暦 (twitter)

参照
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「幕末」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事