よしGの百歳イブまで

喜びの「 よ 」良かったの「 よ 」よろしくの「 よ 」で、今世を生き抜こう。

「この世界の片隅に」広島上映は1/14まで

2017年01月08日 | 魂、愛、心、命

舟入公民館で、この映画のポスターとロケ地MAPを発見した。

この映画が淡いタッチの中で心を打つアニメとの評判だ。

私の尊敬する方も、このロケ地に覚えがあり懐かしく見られたとのことでした。

この映画を見られて、

それをこんな風に映画に描かれると涙が出るじゃないですか!

映画館を出る時、みんな他の人と顔を合わせないようにしていましたよ。

私も街を歩いててもしばらく涙がこぼれて困りました。

とありました。

公式サイトはこちら

http://konosekai.jp/

予告編がありますのでこちらもどうぞ。(公式サイトからユーチューブで)

https://youtu.be/yoI9Yl60BqU

「この映画が見たい」の声が生んだ、100年先に伝えたい珠玉のアニメーション
クラウドファンディングで3,374名のサポーターから39,121,920円の制作資金を集めた本作。日本全国からの「この映画が見たい」という声に支えられ完成した『この世界の片隅に』は、長く、深く、多くの人の心に火を灯し続けることでしょう。100年先にも愛され続ける映画が、ここに誕生しました。

とあります。(公式サイトから転載)

私が住んでいる広島での上映スケジュールです。(今日から14日かでです。日にちがありませんよ!)

※Movie Walkerサイトから転載しました。(2017/1/8現在の情報です)

全国のスケジュールはこちらへ、 http://movie.walkerplus.com/mv60146/schedule/

広島地区は、以下をご覧ください。

広島サロンシネマ1・2

1/81/91/101/111/121/131/14
  • 10:00
  • 14:45
  • 19:20(~21:40)
  • 10:00 
  • 14:45
  •  19:20(~21:40)
  • 10:00 
  • 14:45
  •  19:20(~21:40)
  • 10:00 
  • 14:45
  • 19:20(~21:40)
  • 10:00
  • 14:45
  • 19:20(~21:40)
  • 10:00
  • 14:45
  • 19:20(~21:40)
  • 10:15
  • 12:45
  • 19:00(~21:20)

 

広島バルト11

1/81/91/101/111/121/131/14
  • 12:15(~14:30)
  • 12:15 
  • 17:25(~19:40)
  • 12:20
  • 17:25(~19:40)
  • 12:20
  • 17:25(~19:40)
  • 12:20
  • 17:25(~19:40)
  • 12:20
  • 17:25(~19:40)
映画館問合
 

呉ポポロ

1/81/91/101/111/121/131/14
  • 10:20 
  • 12:50(~15:00)
  • 10:20 
  • 12:50(~15:00)
  • 10:20 
  • 12:50(~15:00)
  • 10:20
  • 12:50(~15:00)
  • 10:20
  • 12:50(~15:00)
  • 10:20
  • 12:50(~15:00)
映画館問合

時間変更の場合あり

 

T・ジョイ東広島

1/81/91/101/111/121/131/14
  • 09:20
  • 14:15(~16:35)
  • 09:20 
  • 14:15(~16:35)
  • 09:20 
  • 14:15(~16:35)
  • 09:20
  • 14:15(~16:35)
  • 09:20 
  • 14:15(~16:35)
  • 09:20
  • 14:15(~16:35)
映画館問合

 

福山エーガル8シネマズ

1/81/91/101/111/121/131/14
  • 11:30 
  • 14:10 
  • 16:50 
  • 21:35(~23:50)
  • 11:30 
  • 14:10
  • 16:50
  • 21:35(~23:50)
  • 11:30 
  • 14:10
  • 16:50
  • 21:35(~23:50)
  • 11:30 
  • 14:10 
  • 16:50
  • 21:35(~23:50)
  • 11:30
  • 14:10 
  • 16:50
  • 21:35(~23:50)
映画館問合

映画館問

 
 
 

紅梅の貝殻虫!気持ち悪いだけで駆除。

2016年01月25日 | 魂、愛、心、命

ようやく本格的な冬でコタツがありがたい季節になりましたね。

外に出れば、暖かな日差しでようやく一輪一輪と蕾みが出始めたところでしたが、この寒さで固まったのか一時ストップ。白い帽子を被った我が家の紅梅です。

この紅梅は40年もの間私の眼を楽しませてくれています。背の高さだったのが2倍の巨人に!昨年は剪定に困るのと隣に迷惑が掛からない程度にとのこぎりでバッサリ切らせてもらいました。ごめんね!

89歳のおばあちゃんの言葉ではありませんが「ありがとう、すまんのう」の精神です。

幹には、びっしり黒いブツブツがあります。貝殻虫です。

紅梅の樹液をすって生きています。ただ単に存在しているだけみたいです。ネットを見ると直接被害は美観を損なうことと多くなると吸水性で生きていますから生育に影響を及ぼすくらいだそうです。

この貝殻虫は益虫か害虫かはどうなん?

同じネットでこのような意見があったので覚えとして記述します。

簡単に割り切って、害虫とか益虫という概念自体が曖昧なものです。
目的に応じて、その瞬間瞬間が人に役立つか、役立たないか、ということです。
例えば、犬猫にしても、飼い主にとって癒し系でも、他人にとれば、吼えるから耳障りとか舐める咬む糞害蚤ダニ等不潔感もあり、迷惑なものです。
従って、昆虫の種類別に、その生態を見極め、目的と利用方法をしっかりと確定しなければ、意味がありません。当然その管理の仕方も。
ほっておけばよいというものでもありません。
概ね、幼少のころに自然に親しんでいない環境で育った人ほど、気持ち悪がるし(取り扱いがわからないので、恐怖感の表現方法の一つとして、貴書異という)、豊富に自然に親しんだものほど、危険度を瞬時に判断し、コントロール方法を知っているので、平然としている。
例えば、都会人や夜遊びに長けた人ほど、日常行動に警戒心がない。
田舎人ほど常に警戒心がある。なぜか、夜は、見えにくいから、足元すら、何があるか解らない。穴に落ちるかもしれないので、常に昼間に観察している。尤も、若年層は、経験が無いので、無知ですから、危険そのものに気がつかないから、目先だけで走り出す。情報化の進展により迷い、又便利になればなるほど、危険は益々増える。
いつの時点においても、解らなければ、解る体制になるまで、じっと待つなり様子を伺ってから、判断し行動するのが王道かもね。(ネットの園芸相談センターの過去ログたちつさんの回答です)

そうか!

あまりにも多すぎたる場合は紅梅の様子がおかしくなるのでそれから「ありがとう、すまんのう」の精神で地に戻すしかないですね。

排除するジャッジはそのぎりぎりまで私は持ち合わせていません……。

それにしても、自然とはありがたいものですね。

人間にとって役に立つか立たないかの基準ではなく、自然にとってどこか役に立つところがあるから生き続けているのだろう……なにかしら視点を変えて考えてみると、この貝殻虫も愛せるかなと思える雪の日の今日この頃でした。(まだまだ自然に対する優しさ感謝が足りませんね。)

 


老犬レオを偲ぶ。

2016年01月24日 | 魂、愛、心、命

天に召されて6年がたとうとしています。

柴犬、娘が小学校の時に隣から……。レオの実母と実の妹はいつも隣の家にいました。

晩年は、眼も見えなくなり、後ろ足は立てない状態でした。バスタオルで吊り上げるようにして補助してのお散歩。

特に女房はよく面倒をみて、一番悲しんだのも女房でした。

仕事中でしたが、不思議に亡くなった時に”今天に召された”と勘で感じたのでした。

犬とは不思議な生き物です。

魂が通じ合えるのか?愛情の表情が見えるのか?こころが通じ合えるのか?私たちの見えない内面をよくくみ取ります。

2代目のトイプーのチョコちゃんも同じです。

下痢・嘔吐をするときは決まって私たちの精神が不安定か調子の悪いときです。

まるで精神の鏡みたいな存在です。

一見表情が作りにくい顔も、眼がすべてを物語っています。

訴える眼、嬉しそうな眼、怒っている眼、悲しい眼、喜怒哀楽は私たちと同じです。

 

レオちゃんは、現在ワンちゃん専門の共同墓地に眠っています。

 

ごめんね、仕事で辛いときにあたったり、孤独すぎた時に寒い夜空で寝ているところを起こして抱きしめたり、レオには関係なくハシャギすぎて引っ張りまわしたり!

よく付き合ってくれました。

昔の写真を整理した時に、あなたの最後に近いときの写真データが出てきましたので……。

尻尾も毛がなくなり、身体も地肌が見え、肉球も薄くなり毛糸の足袋を女房が履かせたりしたレオちゃん。

あなたが命授かって、召されるまで私たちと一緒だったことを嬉しく思います。

画像を見ながら、うるっときました。

夢の中でまた会おうね!再会を楽しみにしている父から!

 


私は神の存在を信じる軟弱な非宗教組織論者である

2016年01月17日 | 魂、愛、心、命

いつのころからだろうか?

我が家系は浄土真宗である。仏教には13宗派存在する(法相宗律 宗華厳宗真言宗天台宗日蓮宗浄土宗浄土真宗融通念仏宗時 宗臨済宗曹洞宗黄檗宗)だそうだ。

世界でみても、キリスト教教派には(西方教会と東方教会から分派して数多くあります)。イスラム教ではスンナ派・シーア派から指導者の後継者により派閥が分かれて多くの学派があります。ユダヤ教には、正統派・保守派・伝統派・サバタイ派・改革派・再建派・カライ派・フランク派とあるみたいです。

日本神道はもともと八百万の神と言われるように多神教であり祖霊崇拝の傾向の強いものであったので、他宗教との融合も強く神社仏閣が融合された時代もあった。覚えている限り現在では出雲の流れと伊勢の流れとがあるようだ。

新宗教といわれるものも続々と登場している。有名なのが、エホバの証人・モルモン教・統一教会他である。

昔、叔父が深くはまって一緒に入信した新宗教団体に天道総天壇があります。叔父はその指導者が一夫多妻的な考え方で女性にだらしないとみるとさっさと止め浄土真宗一辺倒となった。その後私はイベントに参加したりしたがいつのころからか叔父と同じ違和感を感じ去ったのである。しかしながら考え方の根底の開祖や指導者による教義は絶対神がおられおっしゃっているということである。どうやら元の神は一つのようだとこのころから思った次第です。その開祖や指導者から組織が生まれ、組織が安定化資金化のためにいろいろなしきたりが決められたのではないかと思い始めたのであります。

お墓様相、葬式手順、お参りの方法、手の合わせ方まで千差万別です。もちろんお気持ちでと言われるものも違ってきます。

親父の法要の時に、叔父(先ほどの叔父とは違う、かなりお金持ちの叔父)の法要と同じお坊さんでやってもらったときのことです。明らかに対応が違い仕事としてそそくさとすませそそくさと帰って行ったお坊さんだったのです。またある時に聞いた話ですが、葬儀で導師にお渡しする金額も(一般的に金額がわからないので葬儀社にお聞きしますよね)〇〇葬儀社の時は多いので〇〇葬儀社がいいとかお坊さんが言っていたとかを耳にすると、さもありなんと思うようになったのです。もちろんすばらしいお坊さんもいらっしゃいます。

※でも、仏壇は捨てられないし、墓を守るという意識も捨てられないし、家族の葬式もやるだろうな?軟弱な私です。しかしながら、自分のことは自分でかたをつけたいので、子どもたちよ、葬式は焼き場のみでOK、戒名・院号は無し親からいただいた氏名でOK、墓は市の安い合同墓(お骨は土に返してもらいたいのだが、どこでもというわけにいかないので)でOKです。子供たちのこころの中にあればいいんです。

元に戻って、個人のすばらしい聖職者の方々を否定するわけではありません。組織の一員になると素晴らしい人も組織のしがらみで泣く泣く折り曲げて行動するのが組織人の辛いところです。(自分の会社の組織人生と一緒にすな。反省)

マザーテレサをはじめ、それでも頑張っていらっしゃる方が多数いらっしゃいます。その教えや行動は全く感動を覚えこころに響くものです。

こころの中に神聖が宿る、神はみこころにある。

なぜ、他の何かに自分をゆだね助けをこい、手を合わせるのでしょうか?とココに行きつきました。

人間って弱い存在です。神社仏閣教会に行って、一心に「うまくいかさせてください」「なんとか成就を」と神頼みするのはわかります。それは自分に宿っていらっしゃる神を否定して他におすがりすることです。しかもそれを組織となった神様にお頼みする行為は以上のことで私はやめにいたしました。

今の私は、自分自身に宿っていらっしゃいます神に反しないように、当たり前に自然に準じて私自身のこころを愛に満ち満ちさせて日暮しをさせていただく。結果は因果応報で間違ったら間違ったなりに良かったら良かったなりに気が付けば反省!そうしていけば神様はお守りいただけ、なんとかなるみたいです。(この世界をお作りになられた神との関わりがいまいちまだわからないのですが、こころがなぜかすっきりくるのです)

みこころにいらっしゃる神様に”私は自分自身のこころに愛を溢れさせて行動する”と何回も唱えるています。(しかしながらいつも、反省することばかりです。無意識の思考が差別したり強欲であったり嫌悪したり拒否したりカチンときたり、未熟者の私です。でも頑張ろう)

昨日、女房と一緒に出雲大社広島分祠に交通安全と家内安全のお札を買いに行きました。交通安全のお札が千円。もちろん私はお参りも手も合わせたりしません。鳥居の中に入らずです。車にもお札はいらないのです。

女房が信心しだしたのは、私が家の神だなを拝まなくなってからであります。

そういえば、出雲大社にはまっていた時もありました。特にここ広島分祠は神さまとつながる方がいらっしゃって年に何回か自分の悩みの解決を教えてくださるとかで、神頼みをしに数回通いました。神道の祝詞も日本語ではなく、神語?のどの奥からとも腹の奥からとも不明な言葉で祝詞をあげられます。なぜか感動したものです。これもよくわかりませんが、気持ちが離れてしまったのです。

毎朝の祝詞の行事をしなくなり、毎朝の仏壇に向かっての正信偈をやらなくなってからかと思います。(女房は知りませんが般若心経の写経は大学ノートにたしか千回は写したと思います。それは遠い昔の話です)

それはそれで尊いので、彼女の思うことやっていることを尊重いたします。魂の命ずるままに!

ありがとうございました。人生悔いなしに邁進いたします。