よしGの百歳イブまで

喜びの「 よ 」良かったの「 よ 」よろしくの「 よ 」で、今世を生き抜こう。

お調子モンの中学時代、私は汽車を止めた経験があります。

2016年01月31日 | 日記

なんと私は汽車を止めた経験があります。

直接原因はどいつかわかりませんが、説明します。

旧広島市内の西はずれに鈴峯短大前という郊外電車の駅があります。そこは国鉄と並走している区間で無理して踏切を渡り再三悲惨な事故があるところです。

 

帰りの電車待ちで、A君とテレビで見たスーパーマンの話になりました。(かっこよかったです)

B君やC君が加わって話が盛り上がり、列車を止めたかっこいい姿を再現する話になりました。

線路に出て、またぐようにしてあのポーズです。腰に手をそえたあのポーズとか!片手をあげて空を飛ぶイメージとか!

またある奴は、線路に耳をあて、列車の音を聞ききながら、列車はまだだぞーと言っています。

よっしゃ!代わり代わりにスーパーマンポージング。みんな得意満面です。

「どうだ・これ!」

「おー、かっこええ~」

カーブから列車が見えてきました。

みんな線路脇に下がり、通過を見守るはずでした。

シュッポ、シュッポ、ギギー、シュシュ、ギギー、ギー。

列車が止まったのです。

 

えー!

 

機関車の窓から、運転手さんが

「おまいら、なにしょんや、お前、名前は。お前名前は!」

指さしが私のところへ来ました。

 

A君、B君と私の都合三人が指さしの対象です。

覚悟決めて、「・・です」と言ってしましました。

 

かなり運転手さんは怒っていました。

ひとしきり窓越しに説教のあと、列車は再スタート。

客車の人々が怪訝な顔でジロジロ見ます。

 

ポーと汽笛が一回鳴り

シュシュ、ポッポ、シューポッポ、ガタン、ガタン、ポーーーーと

悲しい音をさせながら去っていきました。

 

翌朝、校庭である全体朝礼の校長先生の話をA君、B君と私が校長室で寂しく窓越しに聞いていました。

朝礼も終わり、

ガラガラガラっ。

K校長先生と担任のS先生が校長室へ!

ゆっくり腰を下ろしながら。優しい顔で経過を話してみなさい。

すべてのおちゃらけを

三人とも神妙な姿でK校長先生に話しました。

意外なことに「馬鹿なことをしたな~。今度からはすなよ!」

これだけ!

むっちゃ怒られると覚悟していた私は思ったものです。

 

当時の1分止めると賠償金がいくらとかのうわさ話はあったのですが、学校からも、親への請求もなかったように思います。

馬鹿なことをやった、中学時代の話でした。

 

今は亡きK校長先生、ありがとうございましたご迷惑をおかけしました。担任のS先生ありがとうございましたご迷惑をおかけしました。

 

66歳に近くなると、懐かしく思い出されます。


いつもの朝の味噌汁は、プランター栽培のネギさまであった。

2016年01月30日 | 日記

我が家の菜園は2か所あります。

市がやっている車で20分くらいの市民菜園と我が家の猫の額ほどの庭であります。

昨年プランターで孫が喜ぶと思って、メロンを植えました。

虫よけにと思い香菜であるネギを周りに配置、メロンとネギの一石二鳥・一挙両得作戦です。

一番楽しみにしていたメロンは撃沈。肥料喰いなのでたくさん元肥をやったつもりなのに……グスン!

ピンク枠が当時のメロン苗植えの状態です。

ネギさまは1年以上にもなるのに、このとおりの状態です。

プランターも結構いいな!

女房どのもチョイとプランターからネギさまを摘まんで食卓へが結構あるみたいです。

 

次はというと、ブドウをもくろんでいます。

プランターでブドウ栽培?

出来るかな~。

 


もう時効のナイトラリーの話しをしよう、公開するぞ許せよ饗庭・高橋よ。

2016年01月29日 | 日記

45年も前の話しである。

ナイトラリーでの話しだ。(このブルーバードで参戦した)

饗庭がドライバー、高橋がナビゲーター、私ともう一人が計算と4人で一チームを組んで出場。

各大学のチームが50台くらい、各車並んでスタートを待つ。

1分ごとのスタートである。今日はどのコースか?島根を周るのか??それとも鳥取か??山口か??

心臓がパクパク言っている。

もちろん舗装された国道を選んでのラリーではない、田舎道を中心にひたすら中国道を走り周る恒例の当時は過酷のラリーであった。

計算の私にとっては薄暗いライトの元で目を凝らしてひたすら読み続ける最悪のナイトラリーだ。

当時の大学生が考えるひねりにひねったコースだった。(特に商大のナイトラリーは思いがけないひねりに定評があった)

浜田道にしても、今のような道路ではなく未舗装でガタガタ道であったのだ。

スタート台に上がる。

スタートは18時37分ジャスト。

さあ、カウントダウン10・9・8……3・2・1、フラッグが振られた!

商大(今は沼田にある修道大学だが、当時は観音の広島空港と三菱造船の間にあった)正門をスタートして、メタコン(メーターコントロールという)までは安全運転!主催者の計測車とのメーター誤差を調整する区間だ。

高橋が次の交差点を2時方向!速度42.6。

右の〇〇商店が見えたら5本目の駐禁標識がパスコン(パスコントロールという。速度変更地点のことをいう)だ、そこから速度38.4と指示がとぶ。

パスコン指示のあと、メタコン(メーターコントロール)が見えてきた。あとわずか!通過!

距離28.63Km、主催者発表29.23Km。あくまでも主催者の計測車と合わせるのがタイムラリーの醍醐味である。補正値0.979だ。大学のコンピュータで作成した補正表をだし、0.979の表を取り出す。

速度42.6指示は、自車に直すと速度41.71となる。

速度が変わった変更点の自車距離を補正して速度を計算し主催者の測定車に合わせた走りをするのが鉄則だ。メタコンまでの通過時間をひたすらタイガー計算機でガシャガシャ計算する。私が主計算、もう一人が検算の副計算者となる。

 

タイガー計算機とは、こんな形である。電卓の無い時代の唯一の卓上計算機がこれだ!

左右25cm、奥行き15cm、高さ15cmくらいだったと記憶する。重さも結構重たかった。

 

その間も、速度変更点のパスコンが何か所も通過する。

計算しながら高橋の通過距離を控える。

でた!メタコンを18時56分28秒!

饗庭は主催者指示の速度で走っている。

メタコン以降の速度を早く補正をしなければ間違った走りをする。急いで現在の位置を計測する。

でた~!

距離18.46Km地点で10秒遅い!副計算者との検算結果も合致。

高橋に指示を出す。100mごとの通過時間を予測する。18.56Km地点19時〇〇分〇〇秒!12秒遅れだ!

饗庭は速度をゆっくり上げる、急激に上げるとタイヤとの空転誤差が生じるのであくまでもゆっくりだ。

18.66Km19時〇〇分〇〇秒!5秒遅い!

18.76Km19時〇〇分〇〇秒!よっしゃ戻った。

これで補正が済んだ主催者測定車のスピードにあった走行になったのだ。

その角を5時に曲がる、左に人、右に自転車……ゴー、ストップと高橋の指示が飛ぶ。

おおっ、最初のチェックポイントだ。曲がり角を曲がり切ったら見える意地の悪い場所にある。

どうだ!距離は、時間は!

高橋から、19時17分32秒、距離〇〇キロと大声で叫んで、

ドアのバタンとする音と同時にチェックポイントの主催者ブースまで高橋走るは走るは猛ダッシュ!通過証をもらって。息が治まらないままスタート!

この停車時間ロスは大きい!〇〇秒遅れ!

すこし立つと挽回して安全運転に!

100mごとの予測計タイムを出すために何秒か置きに、ガシャと1回タイガー計算機を回す音。予測タイムを通過ごとに、〇秒早い遅いの声が車内に響く。

順調!順調!チェックポイントも何回か済んだ深夜2時ごろ。

あれ~?

パスコンが見つからない?行けども行けども、ないのである。

コースミス!高橋痛恨の極み!

すぐ元の道に戻らなければならない。

まず、現在地点の距離、256.56Kmチェック記載。

多し急ぎで戻る。饗庭は飛ばす飛ばす!

見覚えのある交差点まで来ると、高橋「すまん、ここを見逃していた!」とあせり声。

素早く距離を伝達。260.23Km記載。

往復7.34Kmのロスである。

このロス分を取り戻さなければならない。いわゆるこのロス距離を時間0で走った計算だ。

正常なコースをブッ飛ばす饗庭!

曲がり角をクュニュっと曲がったとたん、あっ!

 

このタイミングでなんでだ!

あ~っと。落胆の声が漏れる。

 

チェックポイントだ。チェックポイントの距離と時間を高橋が読む、走る、戻る、落ち着いてスタートを切る。

気を取り直して、この加点はあきらめてあとは0点で行くぞと激を飛ばす。

 

もはや上位入賞はあきらめなくてはならないくらいの点数となった。

あとは、沈黙の中のひたすらタイガー計算機を回す音と私の〇秒遅い早いの声が響く車内であったことは言うまでもない。

※ラリーでの車内は計算チームは後部座席に机を置き、タイガー計算機を載せて、ひたすら景色も見ず計算のみであった。大体において1回生のころには全員計算のものは車酔いを乗り越えていっぱしの計算となったものである。よく窓を開けゲーゲー吐いたのを思い出す。

 

 

明け方、商大のゴール地点に到着。距離と時間をチェックして、高橋がゴールチェックポイントへ走る。

さあ、これからが計算の出番。ドライバーの饗庭とナビの高橋は疲れてお休み。

各チェックポイントの通過時間を記入する。副計算者と、検算である。

ここで間違えると大変!

合致!

よし!

高橋を起こし、主催者に申請する。

各チェックポイントの主催者の通過時間と照らせ合わせてプラスマイナスの秒を1点として合計が点数となる。

この点数が少ないほど忠実に走ったこととなり順位が決まる。同点の場合は秒での計測。

気になったのか、饗庭も起きた。

どうや?

〇点じゃあ!

あ~、ミスコースが痛かったのう!

どっと、疲れがでて発表までの時間は爆睡であった。後輩が起こしてくれて発表に聞き入る。

商大が優勝、我が工大のもう一チームが二位、広大が三位、一般の方が四位と次々に発表となった。

悔しいのう!

部室に帰って、反省会。

主将にどうしたんや?と聞かれる。返す言葉もない!

 

痛恨の極みのラリーであった。

我がチームは残念ながら4年間入賞経験のないチームとして学生時代を終えた。

ちなみに、ナンバーは全日本学生自動車連盟だったと思うがその取得ナンバーで我が校は232、広大が230、商大が231であった。

卒業してから、中国が一つのブロックとなり、503になったのではと思う。

 

 

あまり言っていないのが事故である。

仙台で15年前に高橋にあった時に楽しく語り合ったのがこの事故のこと、麻雀のこと。

 

自動車部時代はラリー事故2回……。 (もはや時効だし、饗庭も高橋も星になったし・・・・・ここら辺でもういいよな)

 

1回目は、センターラインオーバーの正面衝突。私は鞭打ちで1か月入院、ドライバーの饗庭はハンドルで前歯一本欠けた。ナビの高橋はなんともない。

正面衝突と言えば大事故を想像するが速度が出ていなかったのか、車が頑丈だったのか小さい事故で済んだ。

2回目は、田舎の未舗装のカーブでの出来事であった。

ラリー車ブルーバードがカーブを曲がりきれずに1回転。

そのまま田んぼに。

計算最中の私は、車が飛んだ、回った、逆さになったと感覚だけの世界であった。刈取り後の田んぼがクッションとなりペッちゃんこ状態にならなかった。(田んぼの持ち主へのお詫びは先輩たちが)

気が付けば、逆さになったブルーバードのドアを開け、這いずり出た自分がいた。

後続車に事故を伝え、大急ぎで牽引して帰った記憶がある。これも奇跡的にけが人が全く出なかったのは幸いであった。

このころから、なにか守られている気がしたのである。

 

この2件の事故は、学校や世間に公になることもなく、我が部も大学からきついお咎めもなく卒業まで部活が続けられたのは不思議でならない。

 

 

 

 

 

 


女房どのと佐世保バーガーを食べに長崎佐世保まで

2016年01月28日 | 日記

YOUは何しに日本へ

を見て、佐世保バーガーが食べたくなって広島市内で検索!

無い、あった1件のみ。K’sバーガーだが今日は休み(昨年の話)。

どんどん話しが進み、YOUのやっていた佐世保バーガーついでに長崎を回ろうということになった。

高倉健主演の「あなたへ」のロケ地を見たくて、平戸が候補に!

目的地が平戸と佐世保でOK!ワクワクしてきたぞ!

次なる問題が宿泊場所である。

なにせトイプードルのチョコちゃんが同泊できる宿泊場所を探さなくっちゃ。

5~6か所ヒット。レビューを見ていると、麗しの女房どののメガネにかなうホテルは……?

 

「嬉野温泉」。

 

結局「平戸」は断念せざるを得なかった。

行程は、佐世保→九十九島展望→嬉野温泉→肥前夢街道忍者村と相成った。

 

佐世保はもちろん、あのYOUで紹介された防空壕商店街の「ベースストリート」。

いたいた、愛想の無いコックスタイルの顎鬚が特徴の強面のマスターが!

10分待って、お待ちかねのバーガー、

たれをバンズにしみこませて食べてくれとあったので、バンズを上から押さえて、1・2・3……10秒カウント。

さあ、食べよう。ボリュームはすごい!味は絶賛とまではいかないがまあまあ。

次の、九十九島の展望がよかった。多島美なら瀬戸内海と思っていたが、ここはここで最高だった。

展望場所まで登る道中になぜか、ヤギがつながれているのは不思議だったけれども!

 

嬉野温泉で一泊。さすが泉質もいい、日頃の疲れがとれた。

 

朝一番に出て「忍者村」に、子供がたくさんいて女房どのと孫と来れば飽きないところでと孫と一緒の思いで散策。

ガマの油のショーを満喫して

長崎佐世保旅行は終了。

 

なぜ長崎に行かなかったって?

歳だからだよ!

 

きつい行程より、ゆっくりじっくりを選んだ結果だよ!

 

と、楽しんだ二日間であった。

 


出来上がった、貴重な手作り自費出版。披露!

2016年01月27日 | 日記

このブログの4コマ漫画を本にしました。

編集手順を一般公開します。(これは、私が主宰します「自費出版教室」で教えているプログラムに添ったやり方です)

簡単に紹介しますと(すでに執筆が終了してあることが前提です)

①原稿のタイトルを内容日付順にする。このタイトルはいわゆる「項」となるものです。

②「章」・「節」の流れ(ストーリー)を考える。

③①をこの「章」・「節」に割り振る。

④基本となるページデザインフォーマットを作る。(フォントの大きさ種類・文字間・行間・余白・ノンブル位置大きさ等々)

⑤原稿をページごとに流し込む。(コピー&テキストのみペイストで)

⑥ページに納まるように、文章を添削する。添削したものがこれです。

⑦章ページを挿入する。

⑧目次を作り、目次ページを挿入する。

⑨初めに、終わりに文章を作る。参考文献ページも必要なら作る。そして挿入する。

⑩奥付を作る。最後ページに挿入。

⑪本扉をデザインする。最初のページに挿入する。

⑫これで本文完成。全文プリントする。4ページが1単位に注意。ページ調整。

⑬プリントしたものに、見返しをつけて背貼りをする。

⑭本文を三方断ちをする。

⑮表紙のデザインを作成しプリントする。

⑯表紙を折って、背貼りした本文の見返しを表紙に貼りこむ。

⑰重しで押さえて、乾けば完成です。

広島の方なら、教室の説明会を月2回広島市情報プラザでやっています。詳しくはそこで……。

メールいただければ日程・教室開催場所をお教えします。

morimoto@tanishi.co.jp

morinoya@hotmail.co.jp

へどうぞ。

執筆がまだ未完成の方も執筆サポートもしています。一日でも早く出来上がりの喜びを感じていただきたいために……。

私の次は自分史タイトル「絆」を執筆中です。

次回発表をお楽しみに。

 

 


二十歳の”快感野ぐそ”。(自動車部九州遠征)

2016年01月25日 | 日記

汚い話だが、かれこれ45年前指宿まで行った我が工業大学自動車部九州遠征の話である。(時効だからいいですよね)

食事も済んで、先輩たちから自由時間をいただいてから、海岸を散歩しようということになり指宿のはずれの海岸でのことである。(なんとここの砂は掘ると温かい湯気が立ち、いい感じなのである)

歩いても歩いても桜島の稜線はくっきりと見え、波音も白波もちらちら見える。

食事をたらふく食ったせいか、もよおしてきたのである。 手で穴を掘りケツを出し、放屁一発心地よい温泉湯気が体を包む。

温か~い。

景色もよか~。

連れと一緒にケツ出したままで桜島をしばしみとれ一時の平安を味わい、初めての野ぐそは終了した。(もちろん後で埋めたのは言うこともない)

※イラストは45年ぶりに思い出し出し描いたものであるのでリアルさに欠けるのはご容赦願いたい。

一度は味わってほしい一押しの行為である。(星満点の大空に波音が聞こえる海岸線がお勧めです)

 

たしか、2回生での遠征であった。(クラブ車=クラウン・ダイナ・ブルーバードと個人車での遠征)

4年神様、3年貴族、2年平民、1年奴隷の時代である。

この遠征費用も奴隷と平民がバイトした金で行ったことは言うまでもない。

 

 


紅梅の貝殻虫!気持ち悪いだけで駆除。

2016年01月25日 | 魂、愛、心、命

ようやく本格的な冬でコタツがありがたい季節になりましたね。

外に出れば、暖かな日差しでようやく一輪一輪と蕾みが出始めたところでしたが、この寒さで固まったのか一時ストップ。白い帽子を被った我が家の紅梅です。

この紅梅は40年もの間私の眼を楽しませてくれています。背の高さだったのが2倍の巨人に!昨年は剪定に困るのと隣に迷惑が掛からない程度にとのこぎりでバッサリ切らせてもらいました。ごめんね!

89歳のおばあちゃんの言葉ではありませんが「ありがとう、すまんのう」の精神です。

幹には、びっしり黒いブツブツがあります。貝殻虫です。

紅梅の樹液をすって生きています。ただ単に存在しているだけみたいです。ネットを見ると直接被害は美観を損なうことと多くなると吸水性で生きていますから生育に影響を及ぼすくらいだそうです。

この貝殻虫は益虫か害虫かはどうなん?

同じネットでこのような意見があったので覚えとして記述します。

簡単に割り切って、害虫とか益虫という概念自体が曖昧なものです。
目的に応じて、その瞬間瞬間が人に役立つか、役立たないか、ということです。
例えば、犬猫にしても、飼い主にとって癒し系でも、他人にとれば、吼えるから耳障りとか舐める咬む糞害蚤ダニ等不潔感もあり、迷惑なものです。
従って、昆虫の種類別に、その生態を見極め、目的と利用方法をしっかりと確定しなければ、意味がありません。当然その管理の仕方も。
ほっておけばよいというものでもありません。
概ね、幼少のころに自然に親しんでいない環境で育った人ほど、気持ち悪がるし(取り扱いがわからないので、恐怖感の表現方法の一つとして、貴書異という)、豊富に自然に親しんだものほど、危険度を瞬時に判断し、コントロール方法を知っているので、平然としている。
例えば、都会人や夜遊びに長けた人ほど、日常行動に警戒心がない。
田舎人ほど常に警戒心がある。なぜか、夜は、見えにくいから、足元すら、何があるか解らない。穴に落ちるかもしれないので、常に昼間に観察している。尤も、若年層は、経験が無いので、無知ですから、危険そのものに気がつかないから、目先だけで走り出す。情報化の進展により迷い、又便利になればなるほど、危険は益々増える。
いつの時点においても、解らなければ、解る体制になるまで、じっと待つなり様子を伺ってから、判断し行動するのが王道かもね。(ネットの園芸相談センターの過去ログたちつさんの回答です)

そうか!

あまりにも多すぎたる場合は紅梅の様子がおかしくなるのでそれから「ありがとう、すまんのう」の精神で地に戻すしかないですね。

排除するジャッジはそのぎりぎりまで私は持ち合わせていません……。

それにしても、自然とはありがたいものですね。

人間にとって役に立つか立たないかの基準ではなく、自然にとってどこか役に立つところがあるから生き続けているのだろう……なにかしら視点を変えて考えてみると、この貝殻虫も愛せるかなと思える雪の日の今日この頃でした。(まだまだ自然に対する優しさ感謝が足りませんね。)

 


老犬レオを偲ぶ。

2016年01月24日 | 魂、愛、心、命

天に召されて6年がたとうとしています。

柴犬、娘が小学校の時に隣から……。レオの実母と実の妹はいつも隣の家にいました。

晩年は、眼も見えなくなり、後ろ足は立てない状態でした。バスタオルで吊り上げるようにして補助してのお散歩。

特に女房はよく面倒をみて、一番悲しんだのも女房でした。

仕事中でしたが、不思議に亡くなった時に”今天に召された”と勘で感じたのでした。

犬とは不思議な生き物です。

魂が通じ合えるのか?愛情の表情が見えるのか?こころが通じ合えるのか?私たちの見えない内面をよくくみ取ります。

2代目のトイプーのチョコちゃんも同じです。

下痢・嘔吐をするときは決まって私たちの精神が不安定か調子の悪いときです。

まるで精神の鏡みたいな存在です。

一見表情が作りにくい顔も、眼がすべてを物語っています。

訴える眼、嬉しそうな眼、怒っている眼、悲しい眼、喜怒哀楽は私たちと同じです。

 

レオちゃんは、現在ワンちゃん専門の共同墓地に眠っています。

 

ごめんね、仕事で辛いときにあたったり、孤独すぎた時に寒い夜空で寝ているところを起こして抱きしめたり、レオには関係なくハシャギすぎて引っ張りまわしたり!

よく付き合ってくれました。

昔の写真を整理した時に、あなたの最後に近いときの写真データが出てきましたので……。

尻尾も毛がなくなり、身体も地肌が見え、肉球も薄くなり毛糸の足袋を女房が履かせたりしたレオちゃん。

あなたが命授かって、召されるまで私たちと一緒だったことを嬉しく思います。

画像を見ながら、うるっときました。

夢の中でまた会おうね!再会を楽しみにしている父から!

 


懐かしの鋼鉄の友、ジムニーJA-11幌車。

2016年01月23日 | 日記

始まりは、娘であった。

いきさつはさておき、愛車となってからは山や海へはもちろんの事、通勤にも使用した。

さて購入お際には、室内の仕上がりはJA-22であるが、全輪板バネのJA-11が気にいっていました((乗り心地は無視)、それとフロントの顔いい。ヤギの中古車センターでJA-11幌車を一目見たとき惚れ込んで、娘そっちのけで勧めた次第だ。(写真の幌を外した幌車は、ネットから借用したのを当時の形にあわせて加工したものである)

思い出すともう一度乗りたい車である。

元来、カスタマイズが好きな私にとって大きな鋼鉄のプラモデルであった。ネットオークションで部品を安く調達しては夜な夜な取り付けたものである。

又、一人キャンプで道具を積んで夕日見ながら焼肉とビールを飲みながらはもっとも好きなひとときでもあった。

よく考えれば、女房には感謝だね。よく自由にさせてもらって本当に「ありがとう」といいたい。

懐かしの鋼鉄の友を思い出して、哀愁にふける今日でした。

 

 


母ちゃんに母ちゃんの息子に生んでくれてありがとう!と言えた日。

2016年01月22日 | 日記

いままでなかなか言えなかった言葉があります。

「母ちゃんの子供でよかった」 とか 「母ちゃん、母ちゃんの息子に生んでくれてありがとう」 

33年前に亡くなった父、68歳(1983年他界)であったが「父ちゃんの息子に生んでくれてありがとう」を伝えることなく逝ってしまった。

33年たった今、天に届くように心から叫ぼう、「父ちゃん、母ちゃんの息子に生んでくれてありがとう」

昨年末、母が入院した。人生のちょっとした休憩である。

入院前は、一人でなんでもこなし元気であった。

抗生剤の服用で、菌が死滅して最後に残った強烈な菌が原因して胃か腸をやられ大量の下血での入院であった。

ちょっと軽度のボケが入っているが、テレもあったが思い切って言わせてもらった。

「母ちゃん、母ちゃんの息子に生んでくれてありがとうな!」

それから20日あまり、ことあるごとに「母ちゃんの子どもでよかった」 「母ちゃんのいたけえ俺は頑張れた」など感謝の気持ちを伝えた。

軽度のボケが入っているので解っているかなあ?

母と話しているうちに、昔のことを多く語るようになった。

しかも、私の幼稚園時代のことだ。

本当に貧乏だったみたいで、その中であるカソリック系の幼稚園のことを話し出した。

そこのシスターさま(当時は”どうていさま”と呼んでいたと記憶する)に大変お世話になった。お礼しなくてはいけない。と。

そこの教会に寄付してくれ……。しかもいや教会でなく、シスターさまに寄付してくれと言い出した。

さっそく、翌日に寄付したことは言うまでもないが、どうしてか詳しく聞いてみると。

1番目に、借家も窓は板がガルウィングのように開き棒で支えて開ける時代的な古い家を安く借りなければいけないくらいの貧乏のそん底であったのを、ここのシスターさまが親父の働く口として園の送迎バスの運転手に雇っていただいたこと。

2番目に、私を保育園・幼稚園に預かっていただき、共働きができ大変よくしていただいたこと

3番目に、私が脳膜炎になって入院した時に、お袋にとってまことに神さまと思えるくらいの対応をしていただいたこと

母は神様がおられたとさえ言い切ったのである。

また、親父が癌の時に、蓮見ワクチンが効くと聞きつけた時に、藁をもすがる思いで飛行機で東京に2度ほど行き、ワクチンを打ちつづけ

自分のことより「父ちゃん頑張った、頑張った」と告げた。

母の幼少のころの話、

弟の八丁堀から雨の振る中お袋のいる縫製工場までずぶぬれになって歩いて来た話、

父が入院中に、お世話になった看護婦さん・調理師さんと友達になりその方となれ初めとかの話。

貧乏だったが、こころは貧乏でなかったお袋だ。

いまは、1か月近い入院で足腰が弱まり歩くことが難しくなっていますが、母ちゃんなら大丈夫、持ち前の頑張りで入院前の一人で何でもやった時に戻ると信じています。

なにせ、母には神様が守ってくれていますから。

家に帰ったら、弟と三人(父の影膳で四人前)で寿司を取ってビールで乾杯しようや!

入院中にお袋と語った大切な時間をいただきありがとうございます。

感謝いたします。

それにしても、しわが増えたなあ。苦労をさせた年輪かなあ!

自分史に関わらさせていただいた89歳のおばあちゃんの初版本「ありがとうすまんのう」を

すまんねえ、でもありがとう

に変えて、母に贈ります。