日本の朝日新聞記事に、2幕ファンの立場で書いた<5人東方神起復活反対文>がUPされた件について、私たちが何故反対するのか話したいと思います。


私たちは、何故 5人東方神起の復活を望まないのか?

2幕東方神起ファンたちとSMが主張する化粧品事業と625論難は訴訟の核心だろうか?
窮余の策だろうか?

JYJ3人が明らかにした訴訟理由は、SMの不公平契約に対する不当さであり、SMは、それに対し悔しさを訴えたことがあった。
それでは、果たしてSMの契約は正当なものだったろうか?この部分が核心だ。


裁判で扱った訴訟の主な論点は、契約の不公平さに関するものであったし、SMはマスメディア報道を通し、所属歌手の契約書を標準契約書に変えたと自ら不公平な契約書であったことを認めた。
結局、化粧品事業を理由に提起した損害賠償請求訴訟は、袋小路でその局面を打開しようと打ち出した窮余の策に過ぎない。しかし、化粧品事業による損害賠償も根拠の無いものとして棄却された。

化粧品事業が問題になったのだとしたら、JYJが最近までネイチャリパブリックと言う化粧品のモデルになることも不可能だったはずだ。
故に、化粧品事業と言う理由付けは、JYJに無実の罪をかぶせようとする為の稚拙な行為と言える。


そして、625論難は、正直言えば話をする価値も無いゴリ押しだ。
その集会の論点は<どんなことがあっても5人東方神起を支持して欲しい><ファンたちが分裂して争わないで欲しい>という要請の為の席だった。 (なぜなら、その当時も、3人は<2人も共に行動する>と信じていたためだ。)

その様な渦中に登場した、若干編集された音声を所有し、まるでそれが全ての様に、数年が過ぎた今でも5人東方神起復活反対理由とするのは、論理の不在を認める事であり、困り果てた挙句の弁明に過ぎない。


『死んだ子供の耳の手入れ』という韓国のコトワザがある。<何の役にも立たない事をする>と言う意味のこのコトワザの様に、あの人たちは、判決が出るだろう今の時期に、何の意味もない事で不必要な論争ばかり引き起こすのだ。
未だに、そんな非論理的なごり押しに騙される人がいるのだろうか?
そして、今更あんな記事をぶちまけるところを見ると、判決日が近づいて来たのかも知れないと言う気がする。



それなら、私たちが5人東方神起の復活を反対する理由は?

5人東方神起の復活を話す場合、他に付随する理由は全く不必要なのでは?

私たちは、私たちが聴きたい音楽は何だろうか?と言う事だけ考えれば良いのだ。
私たちは、彼らの人生を左右する決定を<正しい><間違っている>と判断することは出来ない。というより、そうしてはならないからだ。誰が誰を<裏切ったか、裏切らなかった>は、全て主観的な考えであり、<鶏が先か、卵が先か>と同様に、不必要な論戦にしかならない。

2幕東方神起は、訴訟の後光を最も多く拝んだ例だ。
今まで、チーム内でボーカルとして大きな比重を占められなかった2人がメインボーカルになり、SMの異例的なプッシュを受けながら、TVのスイッチをつければ東方神起が出てくるという声を聞く位、韓国でも活発に活動をした。
東方神起のタイトルをそっくりそのまま手に入れ、これ程のプッシュを受けたのなら、韓国でも桁外れな破壊力を手に入れなければならない。しかし、大衆は冷ややかであったし、歌も又、輝きを見せることは出来なかった。

その理由は何だろうか?
既に、韓国ではSMPは飽きられたジャンルであり、その上歌唱力に基づいていなければ、更に無視されるのが今の韓国歌謡界の現実だ。

<私は歌手だ><スーパースターK>の様なプログラムが流行するのを見ても分かる様に、歌唱力のある歌手たちの歌が注目されている。
アイドルも同様に、歌唱力の有るメインボーカルが布陣され、ライブが出来ないアイドルは酷評され、休む間もなく最新トレンドの歌が溢れている現実の中で、2幕東方神起が見せる流行遅れのパフォーマンスは飽き飽きしない訳にはいかない。
少なくとも、東方神起の名声を引き継ぐという覚悟でカンバックしたのなら、ボーカル実力を今以上につけでからカンバックしなければならなかったし、新たなジャンルに対する挑戦と、デビュー8年目の力を見せてくれなければならなかったのだが、そうは出来なかった。SMの強力なプッシュのお蔭で派手な活動だったが、却ってそれがメインボーカルの不在だけをはっきりとさらけ出す結果になった。そして、東方神起の名声を引き継ぐと言う覚悟だったとするなら、旧東方神起時代の追憶の様な名曲に対する礼儀も必要だった。(歌うなと言う話ではなく、きちんと歌えと言う意味だ)


それから、果たしてSMが目指す東方神起の今の姿が、彼らのアーティストとしての未来を考えた正しい活動なのか、それについても考えて見なければならない。彼らから東方神起と言う名前を取り上げた場合、どんな姿のアーティストになるかを考えて見れば答えは出るだろう。


反面、JYJの音楽はどうだろうか?


自分たちの権利を取り戻そうとすることが、裏切りに成り得ると言う事を、2幕東方神起ファンたちを見ながら知った。それが、どれ程自己的で、他人の人生に対して無責任な批判であるか?
JYJ3人は、自分たちがやりたい音楽をやりたかったのであり、自分達が作った歌の所有権を手に入れたかったのであり、努力に見合った代価を望んだに過ぎない。
誰がそれを裏切りだと、恐れ多くも口にすることが出来るだろうか。彼らは、SMの話しにもならない全ての契約を実行しながら、東方神起を最高の座に載せた。しかし、彼らが望む自由な創造力は無視されたまま、SMの望む仕事だけを消化しなければならなかった。


それなら、今のJYJの音楽はどんなふうに変化しただろうか?

彼らの歌は、TVで放送されることも無く、ただ、音源と音盤、コンサートだけで大衆と向き合う事が出来た。
TVに出演できないと言う事は、メディアを利用した広報を全く出来ないことであるため、彼らの歌が
大衆性を持つと言う事は難しい。 そして、音源と音盤を出すにも多くの妨害が有り楽ではない状況だ。
そんな不利な状況の中、メンバーたちの自作曲で揃えた2番目のアルバム< IN HEAVEN>が発売された。 このアルバムに収録された< GET OUT>は、私たちも驚くほど大衆的な人気を得た。音源チャートでのロングランは勿論のこと、通りを歩けば、あちこちから聞えてきた。
そして、これが彼らの自作曲と言う点が注目すべきところだ。彼らは既にファンたちだけが愛する歌ではない、大衆をも惹きつける歌を作り始めたのだ。TV出演するでもなく、立派な広報も無しに、彼らは大衆を魅了し始めていたのだ。
彼らの歌からは、2人不在の物足りなさやボーカルの不在は感じられなかったし、韓国の大衆もまた、東方神起ではないJYJという、全く別のグループを知ることになったのだ。

彼らのステージパフォーマンスも変わってきた。東方神起のSMPが愛された理由は、5人の一糸乱れない、きっちりと組み立てられた群舞だったためだし、同じようで違う5人のダンスと歌が一つになる姿に熱狂したのだ。だから、2人だろうが3人だろうが、少人数でのSMPは、その魅力が半減するしかない。
2幕東方神起が、2人でSMPに固執する反面、JYJは、もう少し自由でグローブな彼らだけのパフォーマンスを作ったし、彼らの歌と共に、JYJの色を完璧にまとった。音楽的には、既にJYJだけの色を作り、その色に魅了された多くの人たちがいるため、辛い状況の中でもJYJの未来は期待してみるだけの価値が有るのだ。

SMと AVEXの強力な支援を得て、破竹の勢いで進撃しているように見える2幕東方神起と、自分たちが作った曲で、自分たちの作った舞台で、ファンたちと大衆に近づくJYJは、既に歌手として歩む道が異なっているため、あえて5人東方神起として復活しなければならない意味は消失した。

更に、東方神起が歩んで来た道を<ボアに便乗したもの>と主張するのを見れば、彼らが守ろうとしているモノは、東方神起ではなくSMなのだと考える。
だから、私たちが望む東方神起と、2人が望む東方神起は異ならざるを得ないのだ。

 

 

翻訳: mariya 様