日本人はもっと世界へ出よう。

世界1長い歴史を持ち、世界で最も評判の高い国日本! 日本人は自信を持って
海外に出て、国際人として活躍しよう。

スイス人一家を訪問

2015-09-19 15:05:13 | 旅行

あるスイス人一家を訪問
スイスは欧州の中央、アルプスに位置する国で面積は日本の九州くらい、人口は800万人。
私が日本にいたころ、スイスは小国というイメージだったが、実際は世界最高の国際競争力を持つ国だ。
精密機械、高級腕時計、はスイスの主要産業。 
国民の一人当たりのGDPは42,000ドル。一方日本国民一人当たりのGDPは36,000ドル。日本よりも豊かな国スイス。
 
マニラにいたころ、スイス人と縁ができお宅をお邪魔する機会が有った。
彼は、服装、風格からして他欧米人と異なる気品があり、富裕層という感じだ。
英語も丁寧なイギリス英語を話される。
この一家はマニラから1時間のところにあるアラバン市に住んでいた。家を訪れるとあっと驚く豪邸。プール付き、庭園が美しい。企業家だそうで、大変な富豪だ。
なぜスイス人が豊かなのか、興味をもち調べたところ、日本と共通するものがあり、スイスに親近間を抱くようになった。
かって国際競争力のある産業がなかった地方の貧しい国スイスがなぜ、世界に冠たる最高に豊かな国になれたのか。



「嘆きのライオン」フランス革命
19世紀の欧州は戦争が多く、多くの雇い兵、傭兵にスイス人が応募し、傭兵からもたらされる外貨はスイスの主要な収入になっていた。
ある一家の兄弟、お兄さんがドイツの傭兵、弟さんがフランスの傭兵になり、ある戦場で、兄、弟が戦うという場面に遭遇。兄弟が敵になり戦闘になったとのこと。
これを知ったスイス人は嘆き、もう傭兵は止めよう、傭兵に出なくても生きていけるよう産業を作らなければいけない。 国を挙げて富国強兵に乗り出した。
この嘆きは「嘆きのライオン」としてライオンの彫刻があり、有名なスイスの観光地になっている。
そして、精密機械、ロレックスなどの精巧な腕時計を生み出し、世界でも指折りの国際競争力を持つ富裕国になった。 




一方日本も、敗戦時の最貧国の時代に、民官をあげて産業勃興に力をいれ、自動車、工作機械、電子機器、世界競争力ある産業を生み出した。
スイスと日本、なにか共通点があるように思える。
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タガイタイ紀行記

2015-04-26 08:24:44 | 旅行
タールビスタホテル
創設は1938年。高原都市タガイタイに所在し、タール湖が見渡せ、庭園が大変美しい。





タガイタイはマニラから南へ約60km、標高700mにある街で、有名な避暑地として知られる。
日中平均気温約25度C、夜間は20度くらいに下がる。
マニラの暑さ,喧騒さに日ごろ身を置く私にはオアシスなように思え、南フランスのようなロマンがある。

とても爽快だ。

訪れたのは、タールビスタホテル。4☆ホテルでタガイタイ随一の高級ホテル。
混雑もなく、とてもリラックスできるホテル。
宿泊しなくても庭園、レストラン、教会に出入り自由。
ホテルからタール湖の絶景が見渡すことができる。
タール湖は火山の噴火でせき止められてできた火山湖。

庭園内に洒落た教会があり、賛美歌が聞こえてくる。
クリスチャンではないが、耳を傾けていた。



ホテル、庭園、教会、全てが絶妙に調和し、うまい設計だ。
非常に洒落て垢抜けしている。

ホテルのロビー



光が美しくロビーを照らしている。

老白人紳士のさわやかな笑顔
タールビスタホテルにはアジア系、白人系の顧客が多い。
彼らのそばを通ると、英語、中国語、韓国語が聞こえてくる。

白人のお年寄りが楽しそうに談笑している。
彼は足が不自由で、付き添い女性に支えられながらタール湖の見えるところまで歩いていった。
その顔にはシワが深く刻まれていた。楽しそうに笑顔を作り、遠くのタール湖を眺める表情はとても豊かで良い顔をされている。
老年後期に入り過去生きた歴史が深く刻まれたシワに凝縮されているかのようにも思える。彼は深くため息をつきながら満面の笑顔でタール湖を眺めていた。
老年になっても美のある白人紳士、タール湖の美しい自然とその深く刻まれたシワ顔が、とても爽やかで印象的だ。
若い人たちもいる。しかし彼らは老紳士のようにタール湖の大自然に接して満面の笑顔を作らない。
老白人紳士には少年のような無垢純粋な美があった。 老紳士はきっと素直な誠実な人生を送ってこられたのであろう。大自然の美の前に純粋になれる。そこから笑顔、喜びが生まれる。

タール湖に浮かぶ休火山







ホテルの庭園


タールビスタホテルの外観




タールビスタホテル歴史案内



タールビスタから車で30分の観光名所




レストラン

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傘を買ってくれた銀行員

2014-04-06 15:04:28 | 日記


マニラは雨季に入ったようだ。 ここずーと1週間、曇り空、雨。
今日、大雨。 豪雨かと思えばおもむろ明るくなって、日が射してくる。
しばらくして、また雨。 熱帯地方独特の強い雨。 スコール。 しかし、不安な感情には襲われない。
日本で豪雨が来ると不安さがよぎるのとは対照的なマニラ。
マニラは暑いため、雨が来ると気温が下がり心地良い。

私は銀行にいた。
腰掛けて待っていると、ザザー、バタバタ、激しい音を立てながら雨が降ってきた。
止まない、~止まない、~雨。
帰るに帰れない。
待つ。待つ。待つ。一向に止まない雨。
私には傘がない。

豪雨はさらに激しさを増してきた。おやっ。窓から見える外の風景、道路の様子が変化してきた。
道路が冠水し出した。ドンドン水位が上がってくる。30cm。50cm.80cm....
ええっ? ナンですかこれは?と叫びたい心境。 
子供が飛び込んだ。水位は胸辺りに達している。 私は帰れるのか不安になってきた。
銀行内の様子はいたって平静。行員は黙々仕事をしている。電話で話している行員もいる。

内心はらはらしつつも、落ち着いた表情を無理に作り、
手持ちぶたさそうな守衛に声を掛ける。
「いつ止むんでしょうね、この雨」
「Don't worry,it will stop soon」
「私、傘がないんでね、帰れないんです」と言うと、
「No problem sir,wait」
と彼は、歩き出し、窓口の女性になにやら声を掛けている。 
ンっ?ナに?
女性は席を立ち、歩き出した。「ちょっと待ってください。傘を買ってきますから」 と私に声を掛け雨の中を出かけていった。 
”えっ、傘を買う?私のために?”。 ンっ

しばらくして帰ってきた彼女の手には傘が握られていた。服が濡れている。
”「Sir,here you have umbrella!」"
ありがとう。ありがとう。私はどんな表情を作ったらよいのか戸惑いながら、誠意いっぱい、礼を言おうと心は はせるのだが、言葉はうまく出てこず、ただ、目をギンギンさせて、Thank you!と言った。
傘代100ペソ渡す。

日本ではありえない出来事。 
~~~
傘をさして、私は外に出た! あっ、冠水しているのは銀行前50mくらいのみで、左右に目を投げると向こうには車が列を成していた。
銀行前の道路は土地が低くなっており、周囲の雨水がなだれ込み冠水していたのだった。車列はおとなしくきれいに並んで待っている。水が引くまで待っているのであろうかと思うと、可笑しさがこみ上げてくる。銀行内が平静だったのも理解できた、毎度のことだったのだ。

女性行員は冠水した道路の中、どうやって傘を買いに行ったか? それも外に出るとわかった。 山岳地帯を探検するとき絶壁に体を沿わせて進む場面がある。 まさにあれ。建物沿いに体を沿わせて、小さな足場を頼りに私はようやく冠水していない道路まで脱出できたのであった。都会で探検しているような心境になる。

フィリピンらしい出来事。

家に着くころ雨は止み、日が射してきた。オレンジ色の夕日がマンションを明るく照らし出している。
ほのぼのと、今日の出来事がよみがえる。さわやかな女性銀行員の顔、気を使ってくれたガードマン厳つい顔がよぎる。
今日はすがすがしい一日だった。
~ ありがとう。 ~.~





ケソン市トーマス通りでの出来事
本稿は2013年6月に初寄稿したもの。







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久々の日本帰国、浦島太郎

2014-02-26 11:39:38 | 日記
久しぶりの日本帰国
3年半、フィリピン、バンコク、上海と海外に滞在し、久しく帰っていなかった母国、日本に帰国した。
日本にいたころ当たり前であったことが、何も感じなかったことが、とても新鮮に見える。
なんて、日本は素晴らしいのだろう、日本はすごいと思うことを数多く発見する。浦島太郎になったような気分である。日本再発見。
日本へ観光で入国する外国人は数百万人を超えるといわれる。もっとも多いのが中国人、そして韓国人、インドネシア、マレーシア、米国、英国と続く。
彼らは、一様に日本に関心し、感嘆する。 ある高年イギリス人紳士は日本に来た印象をこう述べている。「私は未開の後進国から、未来の国に来たようだ」と。 彼は新幹線、都市交通機能、地下鉄、鉄道、インフラの進歩に驚いた様子である。 確かにそうだ。東京、大阪ほど都市交通機能が大規模に発達している国は、世界中、どこにもない。その規模においてまさに、日本は世界一である。
毎日当たり前のように電車を利用して勤務先に出勤、学校に登校する。関東だけでもその数1000万人を超える。世界から見ると、これはすごいことである。

フィリピンに長くいたが、フィリピンのインフラ、都市交通機能は日本より、100年遅れている印象だ。そもそも、フィリピン人に鉄道を作ろうという意識がない。 われわれはこれでいいのだ。といっているかのようだ。鉄道があれば30分で行けそうな距離を彼らは1時間半かけて時刻表もない、当てにできないバスで通勤している。たまに、停滞で数時間遅れることもある、すると、「今日は仕事できないね、休みだ、帰ろうか」。こんな調子である。

タイのバンコク、インドネシアのジャカルタは、フィリピンより進んでいる。日本を目標として国を挙げてインフラ整備に取り組んでいる。 中国は気候が日本と似通っているせいか、日本との共通項は多い。しかし、政治システムが日本とは多きく異なる。中国は日本に追いつき追い越せと、日本を非常に意識している。日本を超えることを目標としているようだ。中国はGDPで日本を追い越したといわれるが、一般民衆の生活ぶりを見ると、中国は日本より20年は遅れている印象だ。

日本はアジア一の豊かな国であるし、日本人はアジア一の富裕民族であることは疑いのない事実である。二位の中国、韓国をまだまだ大きく引き離している。日本の発展はアジア全土によい影響を与えている。

しかし、日本に帰ってなぜか私は落ち着かない。 食事はおいしい。日本食は実にうまい。 世界にない入浴の習慣。お風呂が楽しい。
四季が美しい。 交通が便利。どこでも電車、バスで行ける。 わが母国、アジアの雄、日本国。 
しかし、なぜか、私は落ち着かない自分を見出す。電車に乗る。前の人、前に立っている人の表情は暗い。きちんと時間通りに会社に行かなければならない。豊かだが、何かに縛られている。本当の意味での自由のない民族、日本人。そんな印象を持つ。日本人は幸せだろうか?幸せ指数を数字で表すことが出来たら、日本はアジア諸国になかでは点数は低くなるかも知れない。 豊かさとはなんだろう? それは、人生は楽しいと味わえるかどうかではないだろうか。物質的にはもちろん、見えない心の豊かさを、日本人は忘れている、そんなことを思う。

私は東京、八王子に住んでいる。多くの家が建っている。家、家、家、しかし人の気配を感じない。 まるで、ゴーストタウンの印象を感じる。
各家にはそれぞれの生活があるのだろう。なぜか、母国日本にいると寂しく感じる。

日本は何か大切なものを忘れてしまったように思う。 それは人の絆。 アジアは貧しい。フィリピン、インドネシア、バンコク。かの国は音、喧騒、人の生活臭を感じる。

昭和のころ、日本が貧しかったころ。そのころ、町には子供があふれていた。公園にはいつも子供がいた。家族の絆。人と人との絆は強かった。

今、豊かな日本。アジア一の富裕国日本。この国では人の絆が希薄になってしまったような印象を持つ。

私は本当に、浦島太郎になってしまったのだろうか。





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私の自伝-振り回された過去

2013-11-26 06:16:07 | 日記

自伝
私は誰?

ブログエッセイ著者、私の写真は35歳当時のころ撮影された。 当時はまだ両親も健在で親と一緒に暮らしていたせいか表情も穏やかだなと思う。 しかし、、もう、今は親はいない。
私が生まれたのは大阪府東大阪市瓜生堂1丁目。当時、私の家は土地面積100坪、約1000へ―ベー、江戸時代に建てられた大きな茅ふきの家。離れの家、蔵、もあった。祖先は庄屋。庄屋とは大規模な土地を所有して事業をなすものを指す。庭園には池があり、鯉が泳いでいた。井戸もあり、桜、柿、夏ミカン、など樹木も豊富。女中さんもいた。こういう家の長男として私は生まれた。
当時は貧しい家が多かったなか、私は恵まれた富裕な少年時代を過ごした。両親は5人子供をもった。うち二人は幼少で亡くなり、3人の男の子が育った。

人から羨望のまなざしで見られていたのだろうこの私の実家。しかし、今になってわかるのだか、実は恐るべし因縁を背負っていた家だったのだ。
庄屋さんだったというこの家、昭和初期の頃、子孫が絶えてしまって絶家となった家だったのである。 子孫がすべて絶えてしまったこの家には誰もいなくなった。そこへ、私の父一族がこの家に養子として入った。父がこの家に入ったのは父が10歳の時だ。父の父、祖父は土地の名士とされ、当時の花形職、皇居警護の近衛師団に選抜された。馬にまたがり礼装した祖父の写真が仏間に飾られていたのが子供心ながら印象的だった。土地では知らぬ人はいない程有名な家である。
父には兄弟が多い。父に聞いたことがある。「お父さんは兄弟何人いるの?」父の答えが印象的だ。「さー何人かな?10人以上はいるな」と。父は兄弟が多すぎて自分の兄弟が何人いるかもわからない。大正、昭和初期の頃は産めよ増やせえよの国の政策なのか、とにかく子供が多かった。

この広大な土地、家、家財、今はどうなったか。全部なくなった。父は無一文となって死んだ。脳溢血だった。発症して4時間後に治療甲斐なく死亡した。
父はこの土地で事業を始めて失敗、すべての土地財産を失いこの世を去った。ただでもらった財産ほど怖いものはないと私は思う。絶家となった家にはそれなりの理由があったに違いない。絶家となった家に入った一族にも当然負の影響を受け継ぐ。
私の弟は国会議員の秘書をしていた。国会議員の秘書になれたのも、家の羽振りがよく土地では良く知られていたからだろう。弟は得意の絶頂にいた。秘書勤続10年後、彼は東大阪市市議会選挙に立候補した。選挙活動は並々ならないほど盛大で、土地の有識者ほとんどが応援した。トップ当選するだろうと予想された。

しかし、彼は落選。秘書職を辞めたあとの彼は落ちぶれた。彼には子供がなく、妻側から疎まれ離婚した。
一番下の弟は、勉強が嫌いで、運送会社に入った。彼は頭角を現し,取締役部長までなったが、家庭には恵まれず離婚した。
そして、私自信、私はごく普通の職業につき、普通の家庭を持ちたいと熱望したが、全うな結婚生活もさせてもらえず、離婚。私には女の子ができたが、5歳の時に別れ、子供は私から去っていった。
この家で生まれ育った男の子3人は全員離婚し子供はない。絶家となるだろう。
単なる偶然ではない。明らかに家の負の遺産を引き継いでいる。3人はそれぞれ努力し、だれも離婚など望んでいない。みな、平和な家庭を望んだし、成功しようと頑張った。

祖先を調べようと思った。市役所で除籍謄本を取り寄せ調べてみた。大勢の名前がある。多くは若くして亡くなっている。子供の死亡率が高い。時代の背景か、平均寿命は短い。 祖先は子供多いが多くの子供は若くして亡くなっていた。死亡年齢、3歳、1歳、4歳の数字が目に留まる。
子供の頃霊夢をよく見た。 霊夢。 5歳くらいの頃だったであろうか、私はまだ良く覚えている。目を閉じると、暗闇の中に人の顔が見える。一人、二人ではない、大勢だ。顔の後に違う顔。その顔いずれも全うではない、苦しんでいる、怒っている、悶えている。5歳の子供はいつも泣いていた。母は意味なく泣き続ける子供をいぶかっていた。
純粋な子供の脳には家にまつわる負のエネルギーが見える。その霊夢は私の人生を予言していた。霊夢で見た通りの悲惨な人生を自分は歩むことになった。

果たして、人の人生、生き様は、生まれてきた家に大きく影響される。人はだれでも成功したい、発展したい、豊かになりたい、良い会社に入りたい、良い結婚をしたい、良い大学に行きたい、いい家に住みたい、子供と共に生活したい、と、当たり前の、当然な思いがあり、この思いが実現するよう、考え、行動を起こす。 しかし、この行動を妨害し、潰そうとするエネルギーもまた、同時に存在する。 明らかに正のエネルギーと負のエネルギーは同時に存在する。

人はこの世に生を受ける。子供はすくすく成長しようとする、生きようとする、良い学校に入ろう、良い職業に就こう、良い結婚をしよう、財産を築こう、家を建てよう、と思いを抱き、実現しようと行動をする。これは正のエネルギー。しかし、これを妬み、疎み、邪魔しよう、潰そう、壊そうとする、負のエネルギーもまた、同時にこの世には存在するのも現実。それは人の目には認知できない異次元の作用。

人がこの世に生を受け、全うな人生を歩もうとすれば、真っ先やらねばならない重要なことは、負のエネルギーを遮断することである、と私は学んだ。

正のエネルギーとは「神の働き」、負のエネルギーとは「魔の働き」、こう表現することができる。 神と魔はいつも表裏一体で存在する。
火を燃やせば必然的に煙(煤)が発生するように、「神」が存在するところ、「魔」 もまた発生する。この現象は自然界の法則といえる。
神の思いと働きは、産もう、造ろう、育てよう、発展させよう、成功させよう、である。
魔の思いと働きは、神が作ったものを破壊しよう、壊そう、邪魔しよう、潰そう、である。

この世の世界、「存在」には、「意思」、「想い」がある。 その意思を我々日本人は「神」と呼んだ。 

神と魔
神あるところの同時に魔も同時にある。神はこの宇宙を作り、地球を作り、人間を作った。 神の仕事は創造すること。 魔もまた神の産物。魔は神から生まれた。 神は全ての自分が生んだ子供を愛する。子供はみな神から愛されたいと思う。

悪魔も元は神が生んだ子供、天使だった。
神は漂う何もない宇宙に創造する思いを込めた。日本古典によれば、宇宙の創造神は「天の御中主の神」。天の御中主の神は多くの神を産んだ。天照大御神、月読の神、スサノオの尊、水は目の神、雲の神、土の神。 神の仕事とは産むこと、作ること、成功させること。それぞれの神の子供は神から授かった使命を持つ。天照大御神は太陽を司る。光、熱、すべての生命に命のエネルギーを放射する。月読みの尊は月を司る。海の満ち引き潮を司り、気候の変化を産む。
神の仕事とは産もう、育てよう、造ろう、成功させようである。 我々一般人間の思いと同じ。 我々一般人の思いは、会社を発展させよう、国を豊かにしよう、財を作ろう、成功しよう、家を建てよう、大学に入ろう、結婚しよう、この思いは神の思いと同じである。
神とは創造すること、成功すること、発展すること、とイコールである。神は不可視のエネルギーであり、明白に自然界、人間界を支配し、存在している。 神が存在するからからこそ、私、あなた、彼、彼女の存在がある。「存在」とは「神」を意味する。

魔と凶事
人間界で起こる凶事の多くには「魔」が絡んでいる。魔の思いは、もっと不幸になれ、もっと苦しめ、やっつけろ、と常に人の不幸を企んでいる。魔は人の成功、幸福がたまらなく苦痛なのだ。

神の仕事とは
神の本来の仕事とは、「創造しよう」、「産もう」、「育てよう」、「造ろう」、であるから魔を破壊しようという仕事にはあまり積極的でない。したがって、人間は自分で魔から防御しなければならない。

創造的破壊と非創造的破壊
創造的破壊とは神の仕事の一部である。最初から完全なもの、完成されたものはない。作っては壊し、創造しては破壊することによって「学び」「成長」する。創造的破壊は神の領域である。しかし、同じ過ち、失敗、学ばない破壊、破壊が目的の破壊は魔の司る非創造的破壊である。人間の生まれた目的は、成長すること、理想社会を作ることである。しかし、実際はほど遠い。これは、すなわち魔が人間に多く関与していることを意味する。

日本神道に伝わる破魔の神事
日本神道には神楽という神事が伝わっている。神楽の「剣の舞」では、小刀で四方を切り、見えない悪魔を倒す。周囲をしめ縄で囲み、魔から守る結界を作る。
魔は神にはかなわない。悪魔はどうやっても神を倒すことはできない。
人は神と一体となれば、魔から身を守ることができる。

神を祭る
人間が全うな人生を送ろうとするならば、常に神を祭らなければならない。
安心感が生じ、生の昂揚感が生まれる。なぜなら、その思いは神の思いであるから。決して神は遠い存在ではない。今、そこに、ここに、あそこに神はいる。水、空気、太陽、月、土、鉱物、我々自然界すべては、漂えるなにもなかった宇宙に、創造主である、天の御中主の思いを現れである。
昔の古代日本人は、純粋で宇宙と交流できていたと、神道家川面凡児氏は言う。

大自然界大元の存在たる神と凶事
「神がいるならどうして凶事が起こるのか」、の疑問は自然界の成り立ちを知らない者の疑問である。大自然界観察力のない者、知恵、叡智の欠けた者の疑問である。
神の仕事は創造すること、産むこと、作ることであって、壊すこと、潰すことではない。 神は悪魔を潰すということはしない。 魔から自分を守るのは、自分自身の仕事である。

神と悪魔の存在は自然界の法則である。大元の神はちゃんと、魔を撃退する神技を伝授してくれている。 


日本神道

古事記には宇宙の始まりから、神が生まれるいきさつが書かれている。
それぞれの神の名前、使命、役割などが書かれている。
一見、一瞥したところ、おとぎ話、神話、人間の手による創作のようである。そうではない。
それは、日本神霊界の様子をそのまま忠実に書かれたものであると、川面氏は説く。
日本神道の中に、人生の謎を解くカギが隠されているかもしれない。
日本神道は世界平和への重要なキーポイントが隠されている、と私には思える。



アスファルトの花
信号が青に変わった。さー渡ろうとしたとき、ふと、アスファルトの道端に花が咲いているのに気がついた。
砂埃が堆積した道端に小さな小さな一輪の花が花びらを咲かせていた。花びらの大きさ約8mm。花はピンク色。誰も見向きもしない。誰も関心を持たない道端に咲いた一輪の花。よくよく観察すると、とても可憐で芸術的な美しさがある。人が作った美ではない。大自然界が作った美である。決して偶然にこの美は生まれない。そこには、確かに、意思、想い、がある。美しく花を咲かせよう、という意思があるに違いない。花を咲かせようという想いがなければ花は存在しない。絶妙な大自然界の想いが働いている。 大自然界は生命を産み、育む。生を産み、生を謳歌することが大自然界の目的である。

この世に存在する意思ある大自然界。 
この小さな小さな花、これを作ったのはだれか、大自然界である。この大自然界を古代日本人は、「神」と呼んだ。 その感性により、システム化されたものを日本神道をという。
この小さな花は教えてくれた。私の産みの親は「神様」です。----人間も同じではないか。 この小さな花と人間は兄弟だ。






大自然界は命を作った。
命がそこにある。命は美しい。存在とは美である。
アスファルトの道端に咲いた小さな花も大自然界の産物、我々人間も生命。こうして花もその生、花の人生を謳歌している。
人もまた大自然界から生まれてきた。生まれてきた目的は、この花のように、生命を楽しむことではないか、生命を謳歌することではないか。生きることを喜ぶこと、楽しむこと、であって、決して、苦しみ、絶望のために生を受けたのでない。

大自然界の大元の神、宇宙の神、を古代日本人は「天の御中主の神」と呼んだ。(アメノミナカヌシノカミ)

命は美しい。
命、生命とは美である。美は楽しさの表現である。
大自然界は生命を育むあらゆる準備をしてくれている。水、空気、土、重力、風、熱、光。
食物、米、野菜、魚、全ては「大自然界」が人間が生きられるように用意してくれたもの。私たち人間は食物を作ることはできない。ただ、食べやすいように加工しているに過ぎない。お米も神の思いの現れである。これに気が付くとき、人はお米を食べるとき生かされていることがわかる。

生命は生かされている。大自然界の意思によって。 大自然界の意志、思いとは、産めよ、増やせよ、成長せよ、喜べ、楽しめ、成功しろ、豊かになれ、理想社会を作れ、という思い。これが大自然界の思いである。 大自然界は成長することが目的である。
お水は命を育む。「ミズハメの神」と古代日本人は呼んだ。 太陽は生命根源たるエネルギーをあらゆる生命に送る。「天照大御神」(アマテラスオオミカミ)と呼ぶ。 土の神、雲の神。

 古事記には宇宙、銀河の働きまで書かれている。 2000数百年前の古代日本人は世界で最も進んだ智慧を持っていた。 銀河系宇宙の絶妙なる調和は元親神の計画によるものである。 
すべての始まりを始めた神を「天の御中主」と呼ぶ。「天の御中主の神」は無数の神を産んだ。 産まれた神々は、親神の思いを実現しようと、それぞれの役割を担って仕事をしている。
古事記には壮大なスケールで宇宙の始まりから神々の誕生、そして生命誕生の物語が書かれている。 古事記を通じて、神とは、神の思いとは何かを知ることができる。
神の思いとは、創造すること、調和した存在、社会を作ることである。 生命を謳歌することである。

生命とは何か。
生命とは、天の御中主神の意志の表れである。命とは存在を意味し、プラスのエネルギー、を意味する。
この花は、あと数日で死ぬだろう、車に踏む潰されるかも知れない、人に踏まれてその命を終わるだろう。しかし。種子は放っている。小さな小さな種子は風に舞い、どこかに着地し、雨の恵みのあと、命の芽が吹き出し、また、花を咲かせることだろう。未来永劫に渡って。

人間が生まれてきた目的
人間も同じ。生きること、生を楽しむこと、成長すること、成功すること、が人間の目的であり、それは神の思いでもある。

一方、負のエネルギーも同時に存在する。
人間は負の知恵がついて、本来の神の子たる出目(しゅつもく)(本正)を忘却し、親神、大元の神を忘れてしまった。そこに魔がつけ込み、入り込み、凶事(倒産、破産、離婚、殺人、自殺、争い、癌、病気、事件、非業死)に巻き込まれ、自ら苦しんでいるのが多くの人間の姿である。 神はいないと魔は人間にささやく。
悪魔とはマイナスエネルギーであり破壊エネルギーである。 魔、負のエネルギーは、まぎれもなくこの地上に存在し、強力に人間に作用している。その力は人間をはるかに超えた力だ。 神から離れた人間は悪魔の格好の操り人形になる。 魔の手中に落ちいり、凶事の渦中に入ってしまう。
神は嘆いている。
魔から身を守るには、神の子たる自覚を持ち、神と共にある生活をすることだ。

古代日本人の智慧
古代日本人は魔の存在に早くから気が付き認知していた。神事は魔封じに始まり、魔封じに終わるとされている。日本神道が2000数百年、存続し続けた大きな力は、魔封じを早くから開発し、実行してきたからであろう。
魔の入った人間が、この花を見てどうするだろう。踏み潰す。彼らは破壊が仕事なのだ。破壊、争い、戦いそれは神とは無縁な世界である。それは、魔の司る領域だ。

人は神の子
「人は神の子である」
人は自分が神の子だと自覚するとき、神と一体なれると説く。アスファルトの花も神の子。アスファルトの花の目的、それは花を咲かせること。
花を咲かせて、喜ぶこと。生命を謳歌すること、に違いない。人間も同じではないか。人間は神の思い。生命をあらしめよ。という思いから何百億年もたって達成した神の成果、創造物、子供が私たち人間である。神は、子供がすくすく育っている光景をみるのが楽しい、生命を謳歌している人間を見ると楽しい。成功し豊かになっている人間を見るのが嬉しい。

非業、不幸、不遇の死、子供の不幸を見ると神は嘆き悲しむ。人間と同じである。
人は神と一体になった時、魔から保護される。非業から保護される。守護が働く。

神代の時代
昔、日本には,神代の時代、と呼ばれた時代があった。当時、日本人は国も国民も神と一体になった生活をしていた。朝、旭を拝む。旭の背後に光の神、「天照大御神」を拝む。神棚に、汲み取った新鮮なお水を備えて拝む。

生命の目的
私たちがこの世に生を受けた。生きる目的は何か。それは、自分の希望を達成すること、生命を謳歌すること、幸福な生活を送ること、思いを遂げることではないか。それが生命ではないか。生命とは「天の御中主の神」を意味する。生命とは大元の親神の思いではないか。これに気が付いたとき、人は神の子たる自覚を持つ。

大本の神を 天之御中主(アメノミナカヌシ)と古代日本人は呼んだ。

WHO I AM?
私は誰?
答え----あなたは、神様の子供です。

神の定義
神とは産みの親をいう。大元の存在エネルギー。産もう。育てよう。成功しよう。発展しよう。作ろう。というエネルギーを神という。このエネルギーが有るからこそ、今、ここに、私、あなたがいる。この不可視の発展エネルギー、成功させよう、させようとするエネルギーを神と定義できる。
 
この世に生を授けたエネルギーは神。神とともにある生き方が魔を防ぐ。

魔の定義
魔とは存在すること、生きることを妨げようとする不可視のエネルギーを総称して言う。
魔はいたるところで確認できる。------魔=汚れ、嫉妬、傲慢、いじめ、汚れの放置、覚せい剤、ウィルス、生きる意味を理解しようとしないこと、神を学ばないこと、行き着くところ無存在。無存在は死。何もない状態。

神は美だ。存在は美しい。生命は喜びだ。生きることは楽しい。神=美=存在=喜び=謳歌=成功

生きることは美しく、素晴らしい

大宇宙神と一体となった時人は自由になれる

自分の過去を振り返るとき、私は思う、人は大宇宙神と一体となった時初めて自由になれると。
振り回されない、自分の人生を歩むことができると。

大宇宙には意思がある!
私たちが生きるこの世界は大宇宙によって創造された。決して偶然に発生しない。 大宇宙神には意思がある。想いがある。目的がある。目標がある。大宇宙神には計画がある。

大宇宙神の想いとは、素晴らしい理想社会を作ること、喜ぶこと、感動すること。
人類は、失敗し、争い、嘆いて、大宇宙神の存在、意図、目的を学ぶ。 人は本来は成功し、豊かになり、家族に恵まれ、幸福になるものだ。

不幸、混乱、失敗、は大宇宙神を知る、よいきっかけだ。

水の結晶 みずはめのかみ











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