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古代史の謎〜ヤマト王権の形成 (10) NHKラジオ

2025年03月04日(火)、放送分。

興味ある人は、
NHKの聞き逃し配信から聞いてください。

間違いあれば、
私の聞き間違いか、理解不足です。
また、" " 内は感想だったり私が追記したものです。



10.文字のもつ意味

・古代日本での文字は漢字である。
中国から朝鮮半島経由で日本に来たルートが考えられる。

・↑108年前漢の武帝の朝鮮4郡の設置が、
大きなきっかけにな多ったと考えられる。
楽浪郡、玄菟郡、臨屯郡、真番郡。

・↑紀元前1世紀には楽浪郡以外は数十年で衰退し、
楽浪郡(現在の平壌あたり)に中国からの支配が集中する。

・↑派遣された役人が一定数土着していた。

土着人で勢力をもった者たちがいた。
楽浪王氏など。

・↑彼らは楽浪郡で中国と同じように行政を行った。
文字による行政。
中国式の建築物の建築。

朝鮮半島には瓦屋根の技術は無かったが、
楽浪郡だけは中国による技術によりあった。

・↑楽浪郡を中心に漢字文化が定着してゆく。

・楽浪郡に来る韓(朝鮮半島南部)の人々が、
文字文化に接し文字を学ぶ機会が出てくる。

・↑紀元前1世紀から、紀元1世紀にかけて、
茶戸里(たほり)遺跡では筆と刀が発見されている。

木簡に筆で書きこんで、間違えたら刀で削って書き直す。
文字を模様ではなく、文字として認識していたということ。

・↑鏡に文字が書かれていた場合は、模様として認識されていたかもしれない。

・文字文化が日本に伝わったルートとしては、楽浪郡との直接交流。
帯方郡→朝鮮半島南部→日本、
という伝播があったであろう。

・"倭人が"最初に目にした文字は、貨幣や鏡であったと考えられる。

・↑西暦14ー20年くらいに作られた、貨泉は日本から100-200枚見つかっている。
数が少ないので貨幣としては実用ではなく、何かと交換できる特別なものとして、
理解されていた。
一枚だけ丁寧に埋められていたりする。

"南の島の『世界一大きい貨幣』みたいなものでしょうか?。"

・↑最初は文字は模様として見られていたかもしれないが、
早いうちに情報伝達のツールと知られるようになったと思われる。

・西暦57年に奴国に授けられた金印の文字は、文字としてを倭人が理解していたと考えられる。

またこの時の倭国からの使者は、自分のことを太夫(王の代理となる有力者)であると自称したと書かれている。
中国文化への一定の理解があったということ。

・魏氏倭人伝には倭が帯方郡との交渉で、文字を使ったことが書かれている。
倭国の王が、帯方郡や朝鮮半島南部の韓とのやり取りでは、
港で持ってきた物、持ち込まれた物をくまなくチェックし、文章や品物を確認して、間違いないように王に送ったとある。

・↑ただし、卑弥呼自身が文字を読めたかどうかは分からない。
ただし、卑弥呼近辺に読める人がいたということは十分考えられる。

・↑卑弥呼が親魏倭王に冊封されたとき、皇帝から詔が出されていて、帯方郡経由で邪馬台国に届けられたと書いてある。
魏からの外交文書をチェックしているということは、文字を理解していたと言える。

・↑卑弥呼は冊封に対する礼(上表)も出しており、倭人も文字"文章"を書けたことが分かる。

・↑魏志倭人伝に書かれていることが正しければ、
3世紀の倭では文字は外交に使われていたということ。

・↑読み書きができたのはどういう人か?。
朝鮮半島や楽浪郡や帯方郡との、交流や交渉にあたっていた人、
楽浪郡や帯方郡からきて、倭国に駐在している人、
などが考えられる。

・邪馬台国と狗奴国との戦争時に、魏は檄文を周辺国に出したとある。
周辺国でこの文章を理解していたかどうかは不明。

しかし、激を渡す使者が口頭で説明したことも考えられる。

・↑文字を渡すと言うことが、口頭だけの伝達とは違う効果を発揮していたと考えられる。

・↑邪馬台国の時代に、文字の使用は始まっていたと考えてよいだろう。

・古墳時代になる3世紀後半以降には、文字を記したと思われる遺物が出てくる。
3世紀後半、根塚遺跡(長野県)からは『大』とある土器片が出てきている。
書き順が現在とは違い、人を書いてから横棒を書いていたことが分かる。
粘土に書く刻書なので書き順が分かる。

同時期の朝鮮半島でも確認されている。
漢字文化は日本と朝鮮半島である程度共有されていた。

・↑根塚遺跡では鉄剣が出土している。
渦巻飾りは当時の日本では作成困難で、朝鮮半島の技術が使われたと考えられている。
(伽耶の地域で特徴的な模様である)
根塚遺跡の人たちは伽耶と交流していた。
おそらく文字も、伽耶から学んだと考えられる。

・4世紀後半の片部遺跡(三重県)から、『田』と書かれた(墨書)土器が出てきた。
貝蔵遺跡からも『田』墨書が見つかっている。
三重には安濃津という港があったため、交流が活発だったといわれている。

・土器に書かれている文字は、1文字がほとんどであり、どのような意味かは分からない。
呪術的、宗教的な意味で書かれたという可能性も高い。

・東大寺山古墳(奈良県天理市、4世紀中ごろ)から、金で象嵌された太刀が出土している。
太刀には『中平の5月に・・・魔よけの効果がある』という文章が記されている。

中平は後漢の西暦184-189年。

・↑象嵌の技術から中国で作られた太刀と考えてよいだろう。

・2世紀の中国の太刀が、4世紀の古墳から出てきたのはなぜか?。

魏が後漢の年号の太刀を授けることはないので、
楽浪郡との交流のなかで後漢から授けられたことが考えられる。

その場合、
2世紀に日本に来て、4世紀まで大切に伝えられてきたということになる。
非常に特別なものとして扱われていたことが予想される。

・↑文字が何に書かれていたのかも重要。
この場合太刀に書かれていた。

・太刀や剣に文章が書かれることは、その後の日本で重要な意味を持つ。
4世紀後半に百済から送られた七支刀も文章が書かれている。

・3世紀後半から4世紀にかけての、日本列島での文字使用の痕跡は、極めて断片的であり、実態を知ることは難しい。

・5世紀になると、文字文化が発展して詳細をうかがうことができるようになる。

・↑倭の5王の讃は宋から冊封を受けている。
この時は、讃から宋に働きかけて冊封を受けている。

・5世紀半ばの千葉県の稲荷台1合墳からは、文字が刻まれた鉄剣が見つかっている。

・文字の役割は、外交、国内支配の手段などがある。

・5世紀に文字文化が活性化する背景には、
断片的にしか分からない4世紀でも文字文化が、受けつがれていたことを想定しないといけないということになる。

初期のヤマト王権のころにも、文字文化は受け継がれていたと考えられる。



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