2025年02月18日(火)、放送分。
興味ある人は、
NHKの聞き逃し配信から聞いてください。
間違いあれば、
私の聞き間違いか、理解不足です。
また、" " 内は感想だったり私が追記したものです。
興味ある人は、
NHKの聞き逃し配信から聞いてください。
間違いあれば、
私の聞き間違いか、理解不足です。
また、" " 内は感想だったり私が追記したものです。
歴史苦手だし、
人の言葉聞き取るの苦手だし、
大変苦労しました。
今回は特に苦労しました。
8.ヤマト王権成立期の東アジア
・邪馬台国と魏との外交関係は、
朝鮮半島の動向が重要な意味を持っている。
・↑卑弥呼が魏に使節を派遣したのは、
238か239年と言われている。
そして卑弥呼は狗奴国との戦争中の、
247年に死んだと書かれている。
・↑この時期は魏の東アジア政策が、
活発に行われていた時期である。
・↑この時期、魏は遼東半島の公孫氏を滅ぼしている。
公孫氏の領有していた、
帯方郡を接収した。
240年には魏のきゅうじゅん"(弓遵?)"が太守として赴任している。
・↑帯方郡とそれ以前からあった楽浪郡が、
魏の東アジア政策の拠点となる。
・は、赴任した240年にていしゅん"(梯儁?)"を邪馬台国に派遣し、
邪馬台国に金印を授けている。
・↑魏の活動は平和的なものだけではなかった。
・大国である中国が来たと言うことは、
警戒の対象になる。
特に警戒したのは、高句麗である。
・↑高句麗は242年に魏の辺境に侵攻している。
帯方郡、楽浪郡を、
魏が領有したということに対する、
過剰反応であろう。
・↑魏も反撃することになり、
244、255年の高句麗への討伐となる。
非常に激しいもので、
高句麗の首都のがんと"(丸都?)"を、
陥落させている。
・↑このときの高句麗王の東川王は、
シベリア方面まで逃げて、
魏の軍も王を追いかけシベリア付近まで、
追いかけている。
・↑中国の軍隊が、
この地域まで来ることは初めてであり、
非常に強いインパクトを周辺に与えたであろう。
・↑高句麗影響下の濊(わい)という民族も、
討伐の対象になった。
・↑遼東半島から高句麗の首都に軍をすすめ、
同時に南の帯方郡、楽浪郡から、
濊に軍をすすめたということ。
・↑卑弥呼との外交には、
こうした情勢が反映されているということは、
十分考えられる。
・↑こうした魏の動きは、
朝鮮半島南部の韓とよばれる地域を刺激し、
反乱が起こることになる。
馬韓、弁韓、辰韓のこと。
・↑きゅうじゅん"(弓遵?)"はこれを鎮圧しようとするが、
戦死してしまう。
中国の朝鮮半島支配が、
難しいものであったということがうかがわれる。
・一方、この時期、
魏内部でも権力抗争が激しくなっていた。
司馬懿 仲達が権力を握るようになる。
・↑公孫氏征伐は、
諸葛亮 孔明が死んで、
蜀との戦争が下火になったので、
東方に勢力を向けることが、
出来るようになったからだ。
・↑司馬懿 仲達は251年委に死んでいるが、
その後も司馬一族は権力強化され続け、
皇帝さえも殺害されている。
・↑司馬懿の息子の司馬昭の時代にも、
魏に倭国から使者が使節が来ていた。
魏志倭人伝では、
台与が使節を送ってきたと言うところで止まっているが、
その後もあったらしい。
・↑司馬昭の息子の司馬炎が禅定により、
265年に普という国を建てる。
・↑この翌年の266年に、
台与が使節を派遣したと考えられる。
・↑この記録はいくつか残っている。
倭の女王"(の使節?)"が来たとある。
・↑台与は、魏から晋になったことを知って、
使節を出したのか?。
当時の情報伝達を考えると、
台与は魏の滅亡を知らずに、
派遣した可能性が考えられる。
・↑邪馬台国の使節の派遣は、
266年で途絶えたと考えられるが、
魏が滅亡したことが影響が大きいのではないのか。
・晋の対外政策は、後漢や魏の外交政策を引き継いだ面が強い。
・↑東アジアの統治機関として、
帯方郡、楽浪郡を引き継いでいる。
・↑漢から行われていた、印綬授与もやっている。
・↑朝鮮半島からいくつかの印綬が見つかっている。
高句麗、
濊、
など宛が見つかっている。
・3Cになると、
東夷の国々が、
朝貢してきたとか、きかしたとか、いうことが、
繰り返し書かれている。
しかし、何処の国なのかは書かれていない。
・↑ちょうやく という、
遠くの国が、近くの国を経由して到来すること。
しんじょ"(晋書?)"には、
倭人も ちょうやく でやってきたと書かれている。
朝鮮半島南部を経由し、
帯方郡を経由していたということになる。
・↑当時の邪馬台国は29ヶ国の連合体であったし、
馬韓には50ヶ国以上あった。
それらが、まとまって中国と交渉しようとするならば、
政治的なまとまりを、
つくろうとした動きがあったのかもしれない。
・↑中心となる国がなく、
いくつもの国が来たと書かれている。
もし、この中に邪馬台国が含まれていたならば、
代表的な立場を失っていたことになる。
しかし、文献では分からない。
・3C後半に東アジアに、
強い影響力を及ぼしていた晋だが、
その後、急速に衰退する。
・↑2代目の恵帝が、中国史上屈指の暗愚の皇帝だった。
庶民が、飢饉に苦しんでいたとき、
「米がなければ、肉粥を食べればよい。」
と、言ったとか。
・邪馬台国と魏との外交関係は、
朝鮮半島の動向が重要な意味を持っている。
・↑卑弥呼が魏に使節を派遣したのは、
238か239年と言われている。
そして卑弥呼は狗奴国との戦争中の、
247年に死んだと書かれている。
・↑この時期は魏の東アジア政策が、
活発に行われていた時期である。
・↑この時期、魏は遼東半島の公孫氏を滅ぼしている。
公孫氏の領有していた、
帯方郡を接収した。
240年には魏のきゅうじゅん"(弓遵?)"が太守として赴任している。
・↑帯方郡とそれ以前からあった楽浪郡が、
魏の東アジア政策の拠点となる。
・は、赴任した240年にていしゅん"(梯儁?)"を邪馬台国に派遣し、
邪馬台国に金印を授けている。
・↑魏の活動は平和的なものだけではなかった。
・大国である中国が来たと言うことは、
警戒の対象になる。
特に警戒したのは、高句麗である。
・↑高句麗は242年に魏の辺境に侵攻している。
帯方郡、楽浪郡を、
魏が領有したということに対する、
過剰反応であろう。
・↑魏も反撃することになり、
244、255年の高句麗への討伐となる。
非常に激しいもので、
高句麗の首都のがんと"(丸都?)"を、
陥落させている。
・↑このときの高句麗王の東川王は、
シベリア方面まで逃げて、
魏の軍も王を追いかけシベリア付近まで、
追いかけている。
・↑中国の軍隊が、
この地域まで来ることは初めてであり、
非常に強いインパクトを周辺に与えたであろう。
・↑高句麗影響下の濊(わい)という民族も、
討伐の対象になった。
・↑遼東半島から高句麗の首都に軍をすすめ、
同時に南の帯方郡、楽浪郡から、
濊に軍をすすめたということ。
・↑卑弥呼との外交には、
こうした情勢が反映されているということは、
十分考えられる。
・↑こうした魏の動きは、
朝鮮半島南部の韓とよばれる地域を刺激し、
反乱が起こることになる。
馬韓、弁韓、辰韓のこと。
・↑きゅうじゅん"(弓遵?)"はこれを鎮圧しようとするが、
戦死してしまう。
中国の朝鮮半島支配が、
難しいものであったということがうかがわれる。
・一方、この時期、
魏内部でも権力抗争が激しくなっていた。
司馬懿 仲達が権力を握るようになる。
・↑公孫氏征伐は、
諸葛亮 孔明が死んで、
蜀との戦争が下火になったので、
東方に勢力を向けることが、
出来るようになったからだ。
・↑司馬懿 仲達は251年委に死んでいるが、
その後も司馬一族は権力強化され続け、
皇帝さえも殺害されている。
・↑司馬懿の息子の司馬昭の時代にも、
魏に倭国から使者が使節が来ていた。
魏志倭人伝では、
台与が使節を送ってきたと言うところで止まっているが、
その後もあったらしい。
・↑司馬昭の息子の司馬炎が禅定により、
265年に普という国を建てる。
・↑この翌年の266年に、
台与が使節を派遣したと考えられる。
・↑この記録はいくつか残っている。
倭の女王"(の使節?)"が来たとある。
・↑台与は、魏から晋になったことを知って、
使節を出したのか?。
当時の情報伝達を考えると、
台与は魏の滅亡を知らずに、
派遣した可能性が考えられる。
・↑邪馬台国の使節の派遣は、
266年で途絶えたと考えられるが、
魏が滅亡したことが影響が大きいのではないのか。
・晋の対外政策は、後漢や魏の外交政策を引き継いだ面が強い。
・↑東アジアの統治機関として、
帯方郡、楽浪郡を引き継いでいる。
・↑漢から行われていた、印綬授与もやっている。
・↑朝鮮半島からいくつかの印綬が見つかっている。
高句麗、
濊、
など宛が見つかっている。
・3Cになると、
東夷の国々が、
朝貢してきたとか、きかしたとか、いうことが、
繰り返し書かれている。
しかし、何処の国なのかは書かれていない。
・↑ちょうやく という、
遠くの国が、近くの国を経由して到来すること。
しんじょ"(晋書?)"には、
倭人も ちょうやく でやってきたと書かれている。
朝鮮半島南部を経由し、
帯方郡を経由していたということになる。
・↑当時の邪馬台国は29ヶ国の連合体であったし、
馬韓には50ヶ国以上あった。
それらが、まとまって中国と交渉しようとするならば、
政治的なまとまりを、
つくろうとした動きがあったのかもしれない。
・↑中心となる国がなく、
いくつもの国が来たと書かれている。
もし、この中に邪馬台国が含まれていたならば、
代表的な立場を失っていたことになる。
しかし、文献では分からない。
・3C後半に東アジアに、
強い影響力を及ぼしていた晋だが、
その後、急速に衰退する。
・↑2代目の恵帝が、中国史上屈指の暗愚の皇帝だった。
庶民が、飢饉に苦しんでいたとき、
「米がなければ、肉粥を食べればよい。」
と、言ったとか。
"まるで、フランス革命の頃のエピソードみたい。
あーなんか、歴史の逸話は信用できないなあ~、みたいな。"
・魏では皇帝以外の皇族が力を持つことを恐れて、
重職に就けなかったので、司馬懿 仲達にやられたという側面がある。
なので、晋はそうならないように、
その反対に、後続を重職に就けたため、
皇族間の権力争いが激しくなった。
・↑晋(西晋)は他民族を登用し活用していた。
しかし、晋が衰えると、
抑えが効かなくなり、
それらの侵略に耐えきれず、
晋は316年に滅亡した。
・晋の衰退と反比例するように、
勢力を伸ばしたのが高句麗。
美川王(300年)は13等の、
制度を制定し高句麗発展の礎を築いた。
3013年に楽浪郡を陥落した。
その翌年は、帯方郡を陥落させた。
・↑これで、紀元前1世紀以来の、
中国の朝鮮半島支配が終わった。
・楽浪郡や帯方郡に土着した中国人は、
朝鮮半島内部に散ってゆく。
一部は日本列島に渡来人として来た。
・↑倭国にも影響があった。
古くは楽浪郡経由、
次の時代は帯方郡経由で、
中国と交渉していた。
なので、中国王朝との接点が失われた。
4Cに倭国が中国の資料から出てこなかった、
その原因の一つはこれである。
・317年に、東晋が起こる。
しかし、南半分であって、
北は異民族が支配していた。
"今の中国は民族国家なんだから、
当時は異民族でも、
今は中国人の祖先。
という扱いなのでしょうか?。"
・↑東晋は、
北方から貴族が多く亡命していて、
それらと、地元の豪族との争いが多かった。
反乱が良く起きていた。
"貴族と聞いて、おや?っと思った。
そうか、科挙ができる前だったんだ。"
・前燕が起き、
高句麗をやっつけた。
・↑なので、
高句麗は北、東、西には勢力を伸ばせなくなった。
なので、南に勢力を伸ばすという方針が、
倭国にも影響が大きかった。