
ブランドに疎く無関心でも、シャネルの名を知らない人はいない。そのシャネルの創業者ココ・シャネルの半生を描いた作品だが、サクセス・ストーリーというより、ココと愛人たちとの生活を中心に描いた恋愛ドラマのように感じられた。
シャネルの本名はガブリエル・ボヌール・シャネル。“ココ”とは田舎町のナイトクラブで売れない歌手をしていた頃、自分の持ち歌から付けられた愛称であり、その歌は行方不明になった愛犬Cocoを謳ったもの。“ココ”と呼ばれた当初、彼女は不快を露にしたが、堅苦しい本名ガブリエルより愛称を受け入れるようになる。歌っていたナイトクラブで将校のエティエンヌ・バルサンと知り合い、その愛人となる。
同時にクラブで歌手をしながら、仕立屋でお針子仕事もしていた。歌手になる夢は適わなかったが、お針子としての技能がその後の彼女の運命を大きく変えていく。
田舎から抜け出すため、シャネルは愛人バルサンのパリ郊外の館に押しかけ、そこで囲われ者同然として暮らすことになる。バルサンは資産家であり、セレブに顔の効く彼との生活はシャネルに社交界との繋がりをもたらすことになった。ただ、生活に不自由しない金持ちの愛人暮らしをしながら、退屈しのぎにシャネルが作った帽子は著名人たちの評判となり、やがて帽子店を開業する。これが世紀のファッションデザイナーとしての第一歩となったのは言うまでもない。
また、シャネルはそれまでの花やフリル、リボンに飾られたドレスを嫌い、装飾の殆どない服を開発する。はじめ、あまりのシンプルさに、「質素すぎて貧乏人みたい」と社交界の婦人方には不評だったものの、このファッションが後に世界を制することなど、誰が想像できただろうか?
バルサンの愛人であっても、シャネルは彼に媚びるどころかまるで愛嬌がなく、舌鋒鋭く皮肉を言う女だった。そこが魅力的と感じたバルサンだが、本音では養っているという思いがあり、日本のゲイシャの例を挙げ、そのように振舞うことを求めたこともある。バルサンが語った芸者観は、改めて西欧人の東洋女性に対する歪んだ幻想が知れる。男の要求には何でも従順に従うという思い込みそのものであり、男の奴隷とシャネルは一蹴する。男に尽くすゲイシャも実態はカネ次第だし、金を出せば女が屈服するとは限らない。
'70年代後半だったと思うが、日本女性奴隷論をぶったフランス共産党書記長がいたのを憶えている。この書記長殿が共産圏での党の家外奴隷同然だった女性労働者の実態を知っていたのかは不明だが、同じ奴隷の境遇なら、私は躊躇いなく日本の専業主婦を選ぶ。
小説『椿姫』は19世紀半ばの高級娼婦を描いた作品であり、夜の社交界に君臨する女がヒロイン。要するにやっていることは芸者と変わらず、日仏共に共通する職業があるのは興味深い。だが、現実は小説より奇であり、映画『M.バタフライ』のモデルになったフランス人外交官のケースは凄い。女装した京劇役者の中国人に騙され続けたのも、東洋の女への妖しい幻想があったからだ。男の欲望に徹底して従順な女というのは、洋の東西問わない男の永遠の理想だろう。
シャネルの姉も貴族の愛人となり、パリで裕福に暮らしていた。それ自体は結構だが、フランス社会ではパーティーはともかく公式の場では愛人と同席しないようだ。馬好きのバルサンが競馬場に行っても、シャネルがその側に座ることは許されない。これは姉も同じで、姉妹は一般の立ち見席で観戦する。
バルサンの知己にイギリス人実業家アーサー・カペルがおり、シャネルはバルサンの館でカペルと知り合い、恋に落ちる。カペルの父は貴族だが、母はそうではない出自の日陰者であり、彼が渡仏したのも実力で事業を展開する他ないこともあった。シャネルを想いつつ、野心家のカペルが結婚したのは資産家のイギリス女だった。彼の政略結婚に複雑な思いのシャネルだったが、その後も交際は続く。彼女が真に愛したのはカペルだったが、彼はまもなく交通事故で死亡した。
この映画のコピーは「もし翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすためにどんなことでもしなさい」。孤児院育ちでコネ、財産、教育など一切ないのにも係らず、一代であのシャネル帝国を築き上げたのだから、大した女だとつくづく思う。マイナスの条件をモノともせず、全てプラスに転じさせる。シャネルに扮したオドレイ・トトゥのあの黒い瞳だけで、階級や男優位社会を越えそうな意志を感じさせられた。
私はシャネルの生涯について、この映画を見ただけの情報しか知らなかった。ただ、wikiを見ると、どうも映画のシャネル像とは異なっているようだ。シャネル自身は「女の体と心を解放しよう」と簡素な服を生み出したのではなく、第二次大戦時は対独協力者となり、ドイツ軍将校と愛人関係まで結んでいたそうだ。そのため、現在でもシャネルを売国奴として嫌うフランス人がいるとか。そんなシャネルを熱狂的に受け入れたのが、ウーマンリブが台頭したアメリカというのも皮肉だが。
この作品は監督、脚本共に女性であり、映画での自立するシャネル像は、こうあってほしいと願うフェミニストの願望をかなり取り入れた物語に思える。ナチズムを男至上主義の典型と槍玉に挙げるフェミニスト連中は、それに協力したシャネルの不都合な事実はなかったことにしたいらしい。
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シャネルの本名はガブリエル・ボヌール・シャネル。“ココ”とは田舎町のナイトクラブで売れない歌手をしていた頃、自分の持ち歌から付けられた愛称であり、その歌は行方不明になった愛犬Cocoを謳ったもの。“ココ”と呼ばれた当初、彼女は不快を露にしたが、堅苦しい本名ガブリエルより愛称を受け入れるようになる。歌っていたナイトクラブで将校のエティエンヌ・バルサンと知り合い、その愛人となる。
同時にクラブで歌手をしながら、仕立屋でお針子仕事もしていた。歌手になる夢は適わなかったが、お針子としての技能がその後の彼女の運命を大きく変えていく。
田舎から抜け出すため、シャネルは愛人バルサンのパリ郊外の館に押しかけ、そこで囲われ者同然として暮らすことになる。バルサンは資産家であり、セレブに顔の効く彼との生活はシャネルに社交界との繋がりをもたらすことになった。ただ、生活に不自由しない金持ちの愛人暮らしをしながら、退屈しのぎにシャネルが作った帽子は著名人たちの評判となり、やがて帽子店を開業する。これが世紀のファッションデザイナーとしての第一歩となったのは言うまでもない。
また、シャネルはそれまでの花やフリル、リボンに飾られたドレスを嫌い、装飾の殆どない服を開発する。はじめ、あまりのシンプルさに、「質素すぎて貧乏人みたい」と社交界の婦人方には不評だったものの、このファッションが後に世界を制することなど、誰が想像できただろうか?
バルサンの愛人であっても、シャネルは彼に媚びるどころかまるで愛嬌がなく、舌鋒鋭く皮肉を言う女だった。そこが魅力的と感じたバルサンだが、本音では養っているという思いがあり、日本のゲイシャの例を挙げ、そのように振舞うことを求めたこともある。バルサンが語った芸者観は、改めて西欧人の東洋女性に対する歪んだ幻想が知れる。男の要求には何でも従順に従うという思い込みそのものであり、男の奴隷とシャネルは一蹴する。男に尽くすゲイシャも実態はカネ次第だし、金を出せば女が屈服するとは限らない。
'70年代後半だったと思うが、日本女性奴隷論をぶったフランス共産党書記長がいたのを憶えている。この書記長殿が共産圏での党の家外奴隷同然だった女性労働者の実態を知っていたのかは不明だが、同じ奴隷の境遇なら、私は躊躇いなく日本の専業主婦を選ぶ。
小説『椿姫』は19世紀半ばの高級娼婦を描いた作品であり、夜の社交界に君臨する女がヒロイン。要するにやっていることは芸者と変わらず、日仏共に共通する職業があるのは興味深い。だが、現実は小説より奇であり、映画『M.バタフライ』のモデルになったフランス人外交官のケースは凄い。女装した京劇役者の中国人に騙され続けたのも、東洋の女への妖しい幻想があったからだ。男の欲望に徹底して従順な女というのは、洋の東西問わない男の永遠の理想だろう。
シャネルの姉も貴族の愛人となり、パリで裕福に暮らしていた。それ自体は結構だが、フランス社会ではパーティーはともかく公式の場では愛人と同席しないようだ。馬好きのバルサンが競馬場に行っても、シャネルがその側に座ることは許されない。これは姉も同じで、姉妹は一般の立ち見席で観戦する。
バルサンの知己にイギリス人実業家アーサー・カペルがおり、シャネルはバルサンの館でカペルと知り合い、恋に落ちる。カペルの父は貴族だが、母はそうではない出自の日陰者であり、彼が渡仏したのも実力で事業を展開する他ないこともあった。シャネルを想いつつ、野心家のカペルが結婚したのは資産家のイギリス女だった。彼の政略結婚に複雑な思いのシャネルだったが、その後も交際は続く。彼女が真に愛したのはカペルだったが、彼はまもなく交通事故で死亡した。
この映画のコピーは「もし翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすためにどんなことでもしなさい」。孤児院育ちでコネ、財産、教育など一切ないのにも係らず、一代であのシャネル帝国を築き上げたのだから、大した女だとつくづく思う。マイナスの条件をモノともせず、全てプラスに転じさせる。シャネルに扮したオドレイ・トトゥのあの黒い瞳だけで、階級や男優位社会を越えそうな意志を感じさせられた。
私はシャネルの生涯について、この映画を見ただけの情報しか知らなかった。ただ、wikiを見ると、どうも映画のシャネル像とは異なっているようだ。シャネル自身は「女の体と心を解放しよう」と簡素な服を生み出したのではなく、第二次大戦時は対独協力者となり、ドイツ軍将校と愛人関係まで結んでいたそうだ。そのため、現在でもシャネルを売国奴として嫌うフランス人がいるとか。そんなシャネルを熱狂的に受け入れたのが、ウーマンリブが台頭したアメリカというのも皮肉だが。
この作品は監督、脚本共に女性であり、映画での自立するシャネル像は、こうあってほしいと願うフェミニストの願望をかなり取り入れた物語に思える。ナチズムを男至上主義の典型と槍玉に挙げるフェミニスト連中は、それに協力したシャネルの不都合な事実はなかったことにしたいらしい。
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この映画を見る前からシャネルが孤児院育ちだったのを、私は知っていました。何かの民放で彼女のことが取り上げられており、孤児院に預けた実父が会いに来るのをひたすら待っていたというエピソードは切なかったです。
孤児院育ちでコネがが全くなかったのにも拘らず、デザイナーとして成功したのだから大したものです。彼女は若い頃からセレブの愛人でもあったから、洗練された社交術とセンスを身につけていったのではないでしょうか。これも厳格な階級制度があるフランスらしい。
シャネルを演じたオドレイ・トトゥ、私も『アメリ』で知りました。アメリとは対照的な役柄でしたが、良かったですね。