Body Remodeling & Gymnastics No.06の続きを書こうと思います............................
Edisonの言葉である
「Genius is one percent inspiration and 99 percent perspiration.」
という言葉が聖書的な見地から調和しているということでした。
Inspirationというのは「閃き」もしくは「霊感」と訳されます。
そして1%の「閃き」もしくは「霊感」があれば努力を惜しむ事はないということです。
ここで聖書の言葉を紹介しましょう。
「Faith is the assured expectation of things hoped for,
the evident demonstration of realities though not beheld. 」
ひねくれていながらも一応は霊感の言葉を扱うChristianとして書いてみます。
上記の言葉は信仰の定義とされています。
訳した意味としては
「信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,
見えない実体についての明白な論証です。」
となっています。
信仰と霊感というのは非常に密接した関係にあり、信仰が無ければ霊感の言葉である聖書や聖書に基づいて書かれた書物からは益を得る深度が大きく違ってきます。
Inspirationというのは霊感のみならず多くの事柄に関しての「閃き」とされていますよね。
でも
「閃きの根拠は?」
と問われると
「自分自身の中での確信」
としか言えないことがあります。
しかし閃くことの多くが成功の元になっていることが多いでしょう。
「発想の枯渇」という言葉を以前に書きましたが、発想というのは「=閃き」です。
これは単純に当て嵌まることですよね。
Artというのは殆どの場合が瞬間的な閃きによって構築されていることが少なくありません。
閃きというのは最終形態であり完成形が一瞬で突然、雷に打たれたように、Shock状態の感覚に陥るほどの確信を生むんですな。
そしてそこから努力が始まるんですよ。
「閃き」は「確信」という定義も間違いではないかと思います。
人は確信をしなければ行動を起こすことは少ないことからも明らかです。
根拠のない確信ではないというのも大きいでしょう。
ここで信仰の定義が出てくるんですよね。
各自の信仰というのは目に見えるモノではありません。
そして強さも大きさも広さもそれぞれが全く違います。
Diamondのような信仰を持っているならば非常に小さいながらもその動機は非常に大きなモノとなり得ます。
信仰はもう一つの言葉を紹介するとこのように書かれています。
「あなた方に真実に言いますが,からしの種粒ほどの信仰があるなら,
この山に,『ここからあそこに移れ』と言うとしても,それは移るのであり,
何事もあなた方にとって不可能ではないのです。」
からしの種粒は大きさが約1mm程度で聖書時代の種を蒔く植物の中で小さな部類のモノでした。
しかしその質によっては強大な物事をも動かすという事を意味しています。
例えば核融合を思い浮かべて貰えれば解るかと思います。
核反応というのは原子という小さなモノからEnergyを発生させています。
動機も同様で例え小さくとも其れが強く強固なモノであれば継続的なモノとなり生み出す結果は大きくなることを意味しているのでしょう。
結果として「確信」ほど「信仰」に近いモノはないでしょう。
信仰と確信は言葉は違えど全く同じだと言えるのです。
信仰の業は生み出す実からでしか証明できない所も確信と同様です。
ある種の信念は必ず動機を産み、動機は「業」となります。
「業」というのは確信や信仰によって生み出された「結果」です。
ということでEdisonが述べた1%の閃きによって99%の努力を惜しむことはないという姿勢は確信なり信仰を抱いている人の行動によって証明されていると書いても過言ではありません。
「保証された期待」というのは行動によって明白に論証されるんですよ。
ということで肉体改造を実行していこうと思います。
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