少し精神的に不安定になっています.................................
その原因が理解できていなかったのですが、今日は把握することができました。
理由は
自分の言葉を綴っていないこと
であることがわかりました。
自分の感情、論理、精神論などを書き綴ること
ですな。
つまり「Blogを書くこと」ということがはっきり明確に理解できました。
別に無くても良いのかもしれないな~とか高を括っている自分がいたのですがね。
イライラしてきてさらに考えが纏まらなくなっていきます。
これは悪循環で闇の世界に引き摺り込まれて行く感覚を久しぶりに味わいました。
そういえばこのBlogも満5年を迎えています。
今年からは毎日書くことは出来ないと割りきって不定期になりましたがね。
短くても書く方が楽なのはわかっています。
中途半端はあまり好きではないのが困るんですよね。
中途半端が嫌いなのに記事としては納得できるものがないというのも悲しい現実ですな。
本腰を入れるとそれこそ長文の超大作になってしまいますし、大変な事になってしまいます。
それに時間の消費量というのは格段に上がりながらも、それでも納得はしないでしょう。
時間を浪費してしまっているという意識もありますな。
最近ハマっていることがあります。
2chの速報Blogなどを梯子していてそれが物凄く時間を浪費してしまっています。
これではいけないとは思っているのですがね。
人と約束をするというのは最も有効な時間管理Toolと成ります。
よって人とたくさんの約束をすることによって有効に時間を使用していきたいものです。
それと睡眠に関しても書きましょうかね。
睡眠を早くすることによって大分楽に生活できるというのはわかるのですがね。
睡眠導入の方法として読書をすることにしていました。
読書はChristianの雑誌に書かれていたのですが、Stressを軽減する有用な方法なようです。
読書をすることによってStressは1/3に軽減されるそうです。
これはつまり目が冴えている状態でもRelaxすることが期待できるということを示しています。
事実、おいらがこれを実感しているのですから事実なのでしょう。
というよりこれもPlacebo Effectなのかもしれませんがね。
良いモノはどんどん取り入れていく努力を怠らないようにしたいものです。
イライラする要因としては他人が行っていることを見ていると
なぜこうしないのか
もっと良い方法があるだろう
という気持ちですな。
余裕がある時はThroughできるんですけどね。
イライラし精神的に不安定なときはそれをさらに煽る効果になってしまいます。
言えれば良いんですけどね。
物事のおこない方というのは人それぞれなのでそれを指摘するというのは野暮なことでしょう。
ということで言わないようにしています。
これがStressに直結します。
人と行動するのが嫌なのはこういう部分を見たくはないからです。
おいらが認めている人とは良いんですけどね。
おいらが認めたくもない人との行動というのは苦痛の何者でもありません。
それにこういう人間というのは指摘しても改善することは期待できませんからな。
人間というのは観察していると改善する努力をする人であるかしない人であるかが明確に理解できるように成ります。
努力する人は指摘されたことを必死に改善しようと努力しているのが理解できますからな。
改善しようともせず、言いたいから言っているだけなんだろうと考えている人間の思考というのはおいらとは相容れません。
自己努力をしない人間がおいらは嫌いなのですよ。
努力している人間は評価します。
しかし努力もせずに自分の権利だけを主張する人間はおいらの眼中にはありません。
このような人間とはお近づきになりたくはありませんし、関わりたくもありません。
そういえばこのような言葉を見て感心しました。
「贔屓はしませんが、区別はします。」
これは良い言葉ですね。
おいらは贔屓をよしとしています。
確かに接触してすぐに判断するというのは軽率なことです。
よって見続けた結果なのですがね。
見続けた結果で努力している人間をおいらは贔屓するとこのBlogでは宣言しています。
しかしおいらの場合は上記に書いた区別に近いのかもしれないと感心したんですよね。
おいらは物事を一生懸命真面目に行っている人間を評価したいと思います。
でも一般の感情では不良が更生し真面目に生活するようになった方を大きく評価しますよね。
確かに聖書にも同様のことが書かれています。
おいらはどちらかというと一生懸命に真面目に生きている人間は、不良が更生するよりも大きく評価されるべきだと考えていますし、実際に判断しています。
真面目に生きている人間は真面目に生きている故に平穏で不自由なく生きているではないかと言われるかもしれませんね。
でも真面目にしている故に
「得損なっている」
という感情が非常に強いものであることが少なくありません。
「なぜ自由に生きてはいけないのか」
「なぜ不良が戻ってきてそれが咎められることがないのか」
「なぜ蒔いたものを刈り取らないのか」
「なぜ気ままに生きておきながら悔い改めたぐらいで無し無しになるのか」
などの感情を抱きながらも生きているわけです。
これは真面目に生きてきたゆえに抱える大きな疑問でしょう。
そして不良は蒔いたものを刈り取ったゆえに悔い改めに至っていると知識として知っていながらも納得出来ないんですよね。
一昔前のおいらはこのように感じていました。
話を戻しましょうかね。
「贔屓はしないが、区別はする」という言葉のいいところは蒔いているモノに応じて対応するという利点でしょう。
おいらはそのような対応をうまく表現する方法が欲しいと思っていました。
おいらの動機に訴えるのは努力している人間を高く評価し何かしら努力をしている人間に報いたいというものです。
しかし何もしない人間に何かをしようとは思いません。
必要最低限のこともしないというのは責任感の欠如の表れです。
おいらはそのような人間を評価することはありませんし、動機に訴えることは皆無です。
努力している人間の為に行動するのはおいらの中では当然のことですが、他人からすると「贔屓」していると映っているようなので「贔屓」という言葉を使ってきました。
しかし「区別」という言葉をうまく使っているのを見て感心しました。
これからは「区別」という言葉を使っていきたいものですな。
その原因が理解できていなかったのですが、今日は把握することができました。
理由は
自分の言葉を綴っていないこと
であることがわかりました。
自分の感情、論理、精神論などを書き綴ること
ですな。
つまり「Blogを書くこと」ということがはっきり明確に理解できました。
別に無くても良いのかもしれないな~とか高を括っている自分がいたのですがね。
イライラしてきてさらに考えが纏まらなくなっていきます。
これは悪循環で闇の世界に引き摺り込まれて行く感覚を久しぶりに味わいました。
そういえばこのBlogも満5年を迎えています。
今年からは毎日書くことは出来ないと割りきって不定期になりましたがね。
短くても書く方が楽なのはわかっています。
中途半端はあまり好きではないのが困るんですよね。
中途半端が嫌いなのに記事としては納得できるものがないというのも悲しい現実ですな。
本腰を入れるとそれこそ長文の超大作になってしまいますし、大変な事になってしまいます。
それに時間の消費量というのは格段に上がりながらも、それでも納得はしないでしょう。
時間を浪費してしまっているという意識もありますな。
最近ハマっていることがあります。
2chの速報Blogなどを梯子していてそれが物凄く時間を浪費してしまっています。
これではいけないとは思っているのですがね。
人と約束をするというのは最も有効な時間管理Toolと成ります。
よって人とたくさんの約束をすることによって有効に時間を使用していきたいものです。
それと睡眠に関しても書きましょうかね。
睡眠を早くすることによって大分楽に生活できるというのはわかるのですがね。
睡眠導入の方法として読書をすることにしていました。
読書はChristianの雑誌に書かれていたのですが、Stressを軽減する有用な方法なようです。
読書をすることによってStressは1/3に軽減されるそうです。
これはつまり目が冴えている状態でもRelaxすることが期待できるということを示しています。
事実、おいらがこれを実感しているのですから事実なのでしょう。
というよりこれもPlacebo Effectなのかもしれませんがね。
良いモノはどんどん取り入れていく努力を怠らないようにしたいものです。
イライラする要因としては他人が行っていることを見ていると
なぜこうしないのか
もっと良い方法があるだろう
という気持ちですな。
余裕がある時はThroughできるんですけどね。
イライラし精神的に不安定なときはそれをさらに煽る効果になってしまいます。
言えれば良いんですけどね。
物事のおこない方というのは人それぞれなのでそれを指摘するというのは野暮なことでしょう。
ということで言わないようにしています。
これがStressに直結します。
人と行動するのが嫌なのはこういう部分を見たくはないからです。
おいらが認めている人とは良いんですけどね。
おいらが認めたくもない人との行動というのは苦痛の何者でもありません。
それにこういう人間というのは指摘しても改善することは期待できませんからな。
人間というのは観察していると改善する努力をする人であるかしない人であるかが明確に理解できるように成ります。
努力する人は指摘されたことを必死に改善しようと努力しているのが理解できますからな。
改善しようともせず、言いたいから言っているだけなんだろうと考えている人間の思考というのはおいらとは相容れません。
自己努力をしない人間がおいらは嫌いなのですよ。
努力している人間は評価します。
しかし努力もせずに自分の権利だけを主張する人間はおいらの眼中にはありません。
このような人間とはお近づきになりたくはありませんし、関わりたくもありません。
そういえばこのような言葉を見て感心しました。
「贔屓はしませんが、区別はします。」
これは良い言葉ですね。
おいらは贔屓をよしとしています。
確かに接触してすぐに判断するというのは軽率なことです。
よって見続けた結果なのですがね。
見続けた結果で努力している人間をおいらは贔屓するとこのBlogでは宣言しています。
しかしおいらの場合は上記に書いた区別に近いのかもしれないと感心したんですよね。
おいらは物事を一生懸命真面目に行っている人間を評価したいと思います。
でも一般の感情では不良が更生し真面目に生活するようになった方を大きく評価しますよね。
確かに聖書にも同様のことが書かれています。
おいらはどちらかというと一生懸命に真面目に生きている人間は、不良が更生するよりも大きく評価されるべきだと考えていますし、実際に判断しています。
真面目に生きている人間は真面目に生きている故に平穏で不自由なく生きているではないかと言われるかもしれませんね。
でも真面目にしている故に
「得損なっている」
という感情が非常に強いものであることが少なくありません。
「なぜ自由に生きてはいけないのか」
「なぜ不良が戻ってきてそれが咎められることがないのか」
「なぜ蒔いたものを刈り取らないのか」
「なぜ気ままに生きておきながら悔い改めたぐらいで無し無しになるのか」
などの感情を抱きながらも生きているわけです。
これは真面目に生きてきたゆえに抱える大きな疑問でしょう。
そして不良は蒔いたものを刈り取ったゆえに悔い改めに至っていると知識として知っていながらも納得出来ないんですよね。
一昔前のおいらはこのように感じていました。
話を戻しましょうかね。
「贔屓はしないが、区別はする」という言葉のいいところは蒔いているモノに応じて対応するという利点でしょう。
おいらはそのような対応をうまく表現する方法が欲しいと思っていました。
おいらの動機に訴えるのは努力している人間を高く評価し何かしら努力をしている人間に報いたいというものです。
しかし何もしない人間に何かをしようとは思いません。
必要最低限のこともしないというのは責任感の欠如の表れです。
おいらはそのような人間を評価することはありませんし、動機に訴えることは皆無です。
努力している人間の為に行動するのはおいらの中では当然のことですが、他人からすると「贔屓」していると映っているようなので「贔屓」という言葉を使ってきました。
しかし「区別」という言葉をうまく使っているのを見て感心しました。
これからは「区別」という言葉を使っていきたいものですな。