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思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。
扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記



傷つけてしまいました..........
2006.08.02:追記します。
多少自分のことを美化しすぎているように感じますし言い方はもっと悪かったということを断っておきます。
この記事の内容は私の主観から書いたものですので私の都合の良い解釈をしているところが多々あります。
これではフェアではありません。
彼はとても誠実に答えてくださっていましたし、丁寧な言葉で話してくれました。
それを私の観点という浅い見解でしか書けていないので断っておきます。
ほとんどすべての会話で私の都合の良い受け取り方しかしていません。
彼の考えと私の考えの相違を考慮すると彼の考えは聡明でもっと深い言葉であったことは容易に解ると思います。
簡単に書くと:おいらの短絡的な思考の主観で書いた記事だと言うことです。

彼はとても純粋な人間である事を前もって断っておきます。

おいらは最初に
O「調子はどう?」
という感じで近づきました。
彼の答えは
M「最近、僕(しもべ)になったんです。」
という答えでした。

これはおいらの質問の意図を組んでいないような答えのような気がしました。
確かに近況報告ですのでこれで良いのかもしれません。
しかし彼は目はきれいなのですがどこか焦点が合っていないような感じでしたので、かなりの違和感を感じました。
それでおいらは
O「大丈夫?」
と目を覗き込んで聴きました。
彼にとってはかなり挑発されているように感じたのでしょう。
しかしそもそも彼の進歩なんてこれっぽっちもおいらには関係のない話です。
おいらが聴きたいのは彼の体と心の健康状態のことだったのです。
それに本気で心配していたのは確かです。

彼は言葉はきれいですが明らかに喧嘩腰で話を始めました。
何の脈絡もないのに
M「兄弟は今どのような個人研究をされているんですか?」
おいらはこのブログで書いた事をメインに話をしました。
そしておいらの言う事が終わるや否や自分の研究している事を話し始めます。
M「エホバの特質について研究をしているんです。」から始まってかなり自分の研究をしている事を話していました。
そしてそれに相づちを打つおいら.......
んで
O「兄弟は生活の中で良く適応されているんですね~」とおいらがこの話を終わらせたのがまた彼の感情を逆撫でしたようです。
M「兄弟の会衆の奉仕の取り決めはどのようになっているんですか?」
O「月曜日以外の日は毎日あるんだよ。兄弟の所は?」
M「私の所は水曜日と土曜日に午前中と午後の奉仕が取り決められています。」
O「えっ?それだけなの?じゃあもしその日に出れなかったらどうなるの?出れない人は困るよね~。」
この答えも彼の怒りに油を注いだようです。
M「取り決めですから」
O「じゃあ、個人的に区域を貰ったりしてすることもあるの?」というと
M「奉仕者が取り決めにあわさなければならないのではないですか?」
言われました。

おいらの正直な感想を書いて良いでしょうか?
おいらは生まれてから現在に至るまで水曜日と土曜日の二日しか奉仕の取り決めのない会衆というのは聴いた事も見たこともありません。
それに多くのクリスチャンにとって集会を指示するだけでも大変な労力が必要です。
その上で奉仕にまで時間を合わす必要があるのであれば仕事どころではないはずです。

まあおいらの考えは置いておきましょう。
次に彼はおいらのあらを絶対に探し出してやろうとばかりに
M「奉仕にはどれぐらい出ておられるんですか?」と尋ねてきます。
O「まあ週に一回出れば良いほどだよ」
M「じゃあ毎週奉仕を定期的に出ておられるんですか?」
ここでおいらは答えに詰まってしまいました。
自分のことだけでもいっぱいいっぱいなのに定期性もクソもありません。(下品な表現ですみません)

O「それを言われると辛いな~..........正直言うと定期的に出れていないよ。」
M「では定期的に出られていないんですね。」
O「う~ん、そうなんよ。それは自分に『死ね』って言われてるのと同じだからね~。」
こんな所で「死ね」という言葉を言うとは考えていなかったようで聞き返してきました。
O「だから定期的に奉仕に出ないといけないと言われる事は僕からしたら『死ね』と言われてるのと同じなんよ」
彼は何も言いません。
多分満足したのでしょう。
自分がいかにこの人より勝っているのかを確認したかった事の証拠です。
ここでおいらはこう言いました。
O「死ねって人によう言う?」(「あなたは人に死ねと言えますか?」という意味)
M「言えません」
ここで彼は自分の不利を察したようで「音響で働いていて人と交代するのを待っている」というような事を言いました。
別においらにはそんな事は関係ありません。
彼は自分が「音響で働いている」という事を言いたかっただけだと言う事をこの言葉から理解しました。
これには適当に相づちを打ちながらまだ何か言いたそうな彼に少し言っておきました。
おいらの病気の事はおいらの巡回区の中ではかなり知れ渡っています。
O「この病気はなってみないと解らないからね~」
M「なるほど~」
それからおいらはこうも付け加えました。
O「まあこの言葉は病気になった人は絶対いう言葉だけどね。」
M「わかりました。(笑)」
最後の笑いはこれは言い訳に過ぎないと感じている事は明白です。
自分の優越感に浸っているようにも感じました。

この会話からおいらは何の益も受けることができませんでした。
彼の自己顕示欲や優越感を満たし、克つ彼の今の努力を自分で確認するのを手伝ったに過ぎません。

しかしそもそも自分の優越感を感じる事がおいらは大嫌いです。
そこには怠慢しか生まれませんし、横柄な態度を生むからです。

「天に宝を蓄えなさい」という言葉が聖書にあります。
今の自分でそれを味わってどうするというのでしょうか?
自己満足というのはおいらは大嫌いです。
クリスチャンでも、今の状況に自分で酔うということをする人がかなりいます。
自画自賛というのは恥ずかしいことではないでしょうか?

彼は自分で自分の考えは完璧で間違った所は全く無いということを話や態度で示そうとしているようにも見えました。
これもおいらの考えと相違があります。
おいらはこの世で一番信用してはならないものは「自分の考え」だと考えています。
この考えは聖書に基づいたもので聖句には明確に示されています。

さらに神との関係に置いて大切なものは何かを考えるとおのずと答えが出て来るでしょう。
確かに野外奉仕に携わる「時間」や「定期性」は大切でしょうし、貴重なことだと思います。
しかし時間をたくさん入れることが神に喜ばれる最大の要因ではありません。
定期性も然りです。
もっとも大切なのは「いかに自分と神との関係を育み大切にしているのか」なのだと思うのです。

この会話は昼休憩の時にしたのですが、大会終了後おいらは機嫌を損ねたことを謝ろうと思って彼に近づきました。
彼の席で少し会話しました。
「機嫌を損ねるようなことを言ってごめんよ。」
彼も昼の会話のことを会話の後に考えていたようで「少し言いすぎました」と言いました。
しかし非があるのはこちらのほうです。
下においらが言った言葉を書いておこうと思います。
「おいらが悪いかった」
「申し訳ない」
「おいらは基本的にとても肉的で不完全なんよ~。だからできていないことがたくさんある。だからできている人を見るとねたましく思ってしまったのは確でした。本当に申し訳ない」
「おいらは励ますことなんてできない。不器用な人間なんよ。また不完全で肉的だし霊性もそんなに高くないけど、こんなおいらでもまた近づいてくれる?」
「本当ごめん」
「兄弟は悪くない。兄弟は冷静に聴いてくれて兄弟のできる最善の方法で会話してくれていたよ。」
「僕はそんなに器用じゃないから兄弟がそこまでできるようになるのは大変な努力が必要だったはずだよね。」
「兄弟がおいらの言葉に一つ一つ言葉を選んでちゃんと応対してくれてたよね。本当に感謝してるんだよ。」
これらの言葉は本当にそう感じたことです。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
ずれてる^^;; (chomemaro)
2006-08-01 23:19:36
mumuさんの日記を読んで、ずれていくってこういう事かなーと思いました。

よく、時に相手が日本語しゃべっているのか、こちらの日本語が変なのか解らなくなるときってありますよね。

きっと、彼は僕になるのが大変だったんでしょうね?なんか、そのあたりの事は、良くわからないですが^^;まじめなんですよね、きっと

感性がずれているのでしょうか

mumuさんは、謙遜ですね、それに、気が付くし

私なぞ、相手が気を悪くしている事にも、気付いてないんじゃないかしらと、しょっちゅう不安です(T▽T)
 
 
 
Unknown (mumu)
2006-08-02 15:05:21
#chomemaroさんへ

彼の言いたいことはよく解るのです。

褒めてもらえないことを良く聞きますし自分がいかに頑張っているかをアピールしたかったのでしょう。

おいらは「自分で頑張っていることを言う」なんて考えられない性格です。



彼の言っていることを聴いていて感じたのは、彼の「自信の元」になっていることは○○者として奉仕している時に最低限のことだと考えていたことでした。

頑張っていても、どんなに努力してもダメなところを指摘してくださる方もいましたし、自分で自分の不甲斐なさを責めることもありました。

「自責の念」は今でもゲヘナのように満足することなく、また間断なく自分の心を蝕んでいます。



彼のことを悪く言うつもりは全くありません。

それどころか、○○者として働いていることに神は大きな喜びを見いだされているでしょう。



彼の言葉は彼の心の悲鳴のように感じました。

よく頑張っていることを褒めてもらいたい!と。

自分で言わないと他の人は見てくれていないんだ!と。

これだけやっている自分は霊性が高いはずで誰よりも優れているんだよ!と。



「それなのになぜ誰も褒めてくれないのだろう?」



この疑問が彼の心に満ちており彼がもっとも必要としている”人”の言葉を聴きたいのだと感じました。

しかし人に求めても意味がないということを理解していないように感じました。

クリスチャンが誇れる理由は「神に関してのみ」であり、多くの努力は神にだけ理解してもらえれば良いのだということを理解する必要があるように感じました。

しかしこれを言うと「何を解りきったことを言っているんだろう?」と考えるでしょうし、さらに「馬鹿にしているんだな。」と感じるでしょうから言えませんでした。

「愛が足りない」とか「怠慢だ」と言われると辛いのですが、この会話でおいらもかなり傷ついてしまいましたので余計に言えなかったのです。



「会話の食い違い」というのは世間一般では良くあります。

自分の言いたいことをそれぞれが言って相手には何の益にもならないことが多いのです。

しかしクリスチャンというのは老若男女問わず会話のベースが共通なのにズレていることに違和感を覚えました。



おいらは人間の中でももっとも劣等な人間ですので彼の方が出来た人間であるのは明白です。

彼が機嫌を損なった原因は絶対にこちらにあるのに傷つけたまま放置するような人間にはなりたくないですよね~。

「謙遜」はとても美しい特質です。

しかし彼との会話は人間的な主観からしか話せなかったので「謙遜からは遠いな~」と考えながら謝っていたんですよ。



chomemaroさんの記事を拝見していると「感受性の強い方だな~」と良く感じます。

このようなBLOGは記事を書き文字にする時点で「ある程度自分の心を整理できる」ので良いですよね~。
 
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