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思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。
扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記



おいらは何度も自分自身を殺してきました...........................................

1日に何十回も殺してきたんですな。
「おいらには生きる価値もない」
「おいらの意見は塵以下」
「おいらの存在価値が無く、逆に塵と比較するのも烏滸がましい存在なのだ」
という考えを擦り込まれてきました。
人というのは「自己の重要感」を満たすことが精神活動の中では非常に重要な位置にあります。
しかしおいらの思考というのはこういったモノとは縁がなくなってしまったんですな。
死に方を模索したことを少し前に書きましたが、死に方を考える事というのは自分の中でSimulationして自分を殺す作業です。
そこまでRealに殺さなくても良いのではないかと思うぐらいのSimulationを繰り返してきました。

よっておいらの燃え滓が少し前まではフラフラとしていました。
ところが転換点が幾つか発生してきました。
おいらの考え方が正しかったことを把握できてきましたし、理解もしてきました。
問題が幾つかありました、正しいという事実を受け付けられなかったんですよ。
おいらは既に死んでいるのでそこまでの価値はないと考えていて受け付けられなかったということですな。

現在はおいらは死ぬ事への恐怖というのは他の人よりも小さい所にあります。
呆気なく死ぬよりも酷い死に方をSimulationしてきたからなんですな。
「死ぬつもりで何かを行えば良い結果を残せる」と良く人はいいます。
しかし「死んだので何かを行えば良い結果を残せる」ということは聴いたことがありません。
おいらは精神的活動で死にましたし、生きていることに疑問を感じるのは間違いありません。
精神障害を煩っているおいらとしては他の人の生きることや死ぬことには興味がありますが、自分の生き死にの問題に関しては既に死んでいるのだから関係ないと突き放している部分があります。

確かに生きていることに関してはとても良いことだと思いますがね。
おいらは守るモノは無いどころではありません。
ある程度までの犠牲というのは当然だという認識もあります。
それによって人に益を及ぼすことが出来るのであれば良いと思うんですよ。

おいらの趣味の事を書き綴っているこのBlogですがね。
本人に余裕があるのであれば人の趣味をどうこう言う権利は誰にもないのだということを良く感じています。
環境にしてもそうです。
良い環境を構築するというのは本人の力で物事を行った事の方が多いでしょう。
ということは他人が出しゃばるというのは常識的に考えて愚かなことでしょう。
人のことをどうこう言うのであれば自分を何とかしなければならないでしょうしね。
愚かな人の意見というのは聴くに堪えない事が少なくありません。

時間の無駄であったり、内容が支離滅裂であったり、起承転結が確りしておらず、話が破綻しているんですよ。

おいらは無駄な時間はありません。
日々の毎時間が貴重な時間なのですから、それを有効活用するのが非常に重要です。
上記の「愚かな人」というのはやけに時間を浪費し、中身のない会話に終始します。
このような人との会話は行いたくありません。

ということで切るようにしています。
関係を断ち切るというのが一番の効果が期待できるんですな。
煩わされることもありませんし、悩まされることもありません。
話をしたいと言われても無視すればいいだけの話ですからね。
おいらは一度ならず数え切れないほど精神的に死んできた人間ですので、人として認識していただかなくても結構なんですよ。
そして「愚かな人」にはおいらの話を聴いて貰いたくもありませんし、楽器が鳴っているような感覚で聴いていただきたいとさえ感じます。

知恵というのは主要なモノです。
しかし自己中心的で悪意を伴っているモノは「知恵」とは言いません。
それは聴いている側が気持ちよくなっても「悪口」でしかないんですよね。
素晴らしい知恵を悪用している人が居ます。
このような人は体裁上では知恵を騙る素振りは見せますが、本質的には内容は自分に栄光を着せようとする悪意に満ちているという訳です。
そしてそのような人の「義」というのは成立しません。
独善的で自分だけが正しいという勘違いが生じているのですから、確実に悪い実をたくさん産みだし悪い実を刈り取ることになるでしょう。
それにこのような人の周りには同類しか集まりませんからね。
同類は友を呼びます。
んで確かに親友にさえ成るでしょう。
でもこのような人たちが集まり人に話す内容に統一性を持たせると言うことは結果的に人への攻撃性に満ちた話に終始するようになっていくんですよ。
「悪を善に、善を悪に変える」ようになっていくんです。
つまり他の人が正しいことを行っていても適正に評価をせず、自分の方が「更に」正しいことをしていると言うことを印象づけようとします。
「人と比較」してねじ曲がった基準で人を判断して、自分の方がより正しいと確信している人というのは逆に憐れにさえ感じてきますよね。

おいらは義を有することはありません。
しかし多少の正しいことは実行できる立場にあります。
そして自分の位置というのも大体把握できるようになってきました。
それにおいらは死んだ人間だと自分で考えていますので言いたいことをある程度の的確さを持って言うことが可能です。
そうなるとどうでしょう。

死ぬことをかなりの程度まで考えた人間というのは人の行動の意味というのをある程度は理解できるようになるようです。
これは実感しますね。
言葉に意味を伏すことをしない人というのを見分けることも出来ますし、逆に近づき会話をしなければならない人というのは鮮明に判断することも可能になっていく訳ですよ。

おいらは自分に益を及ぼしてくれる人との会話を望んでいます。
深い所で話が出来る人というのは本当によく勉強して理解力、思考力、識別力を訓練した人です。
それに話の内容でどれほどその人が勤勉に学んでいるかも理解できるんですよね。
おいらにはそのような価値がありません。
おいらの言うことには説得力がありませんし、賢明な人の話を聴きたいと願ってやみません。

「精神的に死んだこと」
これはおいらの最大に強みであり、悪い方向に感じたことはありません。
次に会うことは無いかもしれないと考えることが出来るとどのようなことでも言うことが出来ますし、どのような態度でも取ることが出来ます。
おいらが接する人がそのことに気が付いているかどうか解りませんがね。
おいらの益となることを伝えてくれる人を非常に高く評価しています。
それと同じぐらいに軽い言葉を発する人は「愚かな人」という定義付けもしているということでしょうかね。

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