この言葉をおいらは人に良くいわれます.....................
死を目前にしている人からの言葉というのは非常に重みのある言葉だと健康な人からすれば感じる事でしょう。
当然の事ながら、生きている事の素晴らしさというのは良く感じますし、過分の親切だとも感じるんですよ。
しかし己自身が生きている事からくる苦痛でも精神的な苦痛を常に与え続ける習慣がついている人間というのはこのような考え方はしないでしょう。
というよりも「出来ない」と書いた方がふさわしいのかもしれません。
己に対してのうちなる憤りを味わい苦しんでいる人と病気や怪我で苦しい思いをしている人とは状況が全く異なります。
身体的な病気で死に直面していく人というのはある程度の自分自身に対して肯定的な考えを持っている事でしょう。
病気を知ったばかりのときは絶望を味わいますが、最終的にすべてを受け入れ死んでいく事を納得するでしょう。
まあ、ある程度の悪あがきをするでしょうし、治療を試みる事は当然の事です。
そしてすべての手段を試みて死しか無くなったときに死ぬ事を前提に今を必死に生きる事を語り、そしてタイトルの言葉を語る訳です。
しかし精神的にやんでいる場合は自分自身の事を肯定する事はない訳です。
また身体的な病気よりもたちが悪いのは身体が健康だからこそ「なぜ自分は生きているのだろうか」と考えるのです。
鬱病や統合失調症の方で「自殺」に向かっていく多くの人は自己否定から死ぬことしか考えられなくなっていくんですな。
自己否定ばかりの人生というのはどれほど辛いかは味わってみなければわからないでしょう。
おいらは結構「生きているだけで素晴らしい」という言葉をかけられていると思います。
でもおいら自身が素晴らしいと心底から実感しなければ意味がなく、生きている事からもたらされる益というのは具体性に欠けることがあります。
特に何も知らない人からこの言葉をかけられる際には、まるで「死ぬ事の方が素晴らしいんだよ」と言われているように感じます。
「命」というのは素晴らしいものです。
しかし命を否定し続ける心というのは、その「命」を台無しにし、自分には「勿体無いもの」、「受けるに値しないもの」としか考えなくなります。
怪我や身体の病気で、自分の怪我や病気と向き合い「往生する」のであれば本望でしょう。
でも不本意ながら生きている人間にしてみれば「死ぬ事の意味の深さ」をより考えている事を理解してもらいたいものです。
死を願っていながら生かされる人間の気持ちというのは、
どんなに「無念」で「情けなく」「無力」で「気力が湧いてこない」
かを知らない人の無思慮な言葉というのは人を余計に傷つけることがあるという事ですな。
どうせなら職業軍人になり最も戦死者が多い地域で最も標的になりやすい位置に進んでいきたいとか考えたりしますし、もし宗教が違ったなら、イスラム原理主義で育ったなら自爆テロなんかは率先してしたでしょう。
私はある時点まで「断固たる決意」というのを持っていました。
三島由紀夫さんの事は知りませんでしたが、彼の自決までの身体造りに似たハード(身体)を恥ずかしくないものとしてキープしている時期がありました。
こちらに来た時点でその考え方は徐々に構築され「いつかは死んでやる」とか「事故死する」というイメージで死ぬ事をシミュレーションする事が常となっていました。
口には出しませんでしたが、私自身はこちらに来てからの無念さが少しでも伝わるような死に方を望んでいた事は間違いありません。
死ぬ事を望んでいる人間に「生きていなければならない」ということは言う側のエゴイズムにすぎないともよく感じます。
「命を大切にしなさい」、「命は貴重なものなんだ」と言われても心が否定する事が多いのですから、もしこのような言葉をかけるのであれば死ぬ事を望んでいる人を説得し改心させる責任が生じる訳です。
死ぬ事を望んでいる人間は「命の大切さ」というのを軽んじている訳ではないんです。
全く逆なんですよ。
あまりに貴重すぎるからこそ自分の命を維持する事を拒むのです。
ただただ「心」が生きる事を否定するのですから、死ぬしかないという思考しか出来なくなるのです。
よって自殺によって死にたいという人を理解しようとして、もしタイトルの言葉を口にするのであれば、自殺しようとする人がそれから先に生きていく上で必要なものをまかなう責任や罪をあがなう備えをもうける必要があるはずです。
ところで当然の事ですが、「自分には価値がない」という事を認識させ言い続けたり、思考を構築させた側の人間は自殺させた人の「血の罪」を負うことになります。
自分のハラスメント等により死に至らしめたのですから、そうさせた人間は聖書的見地では死刑に値するという事ですな。
もしこの意見を言いがかりとするのであれば、では「なぜその人は死んだのか」という理由を考え、黙想する事により自分に原因があるという事をちゃんと認識しなければなりません。
また悔恨の情を示さなければならないでしょう。
まあ今のおいらの場合はそもそも「おいら自身」が原因ですので、おいらに関しては誰にも罪はありません。
おいらは劣等な人間です。
「なぜこんな豊かな国にいるのだろう」とか
「なぜ楽しいという感情を持つ事を許されるのだろう」
「なぜ食料が与えられるのだろう」
「なぜコンピュータを持てるのだろう」
「なぜインターネットに繋ぐゆとりまであるのだろう」
「なぜ車を所有する事を許されているのだろう」
「なぜガソリンを入れることができるのだろう」
「なぜ強制的にお金を取られないんだろう」
「なぜ写真を撮ることを許されるのだろう」
「なぜ本を読むことができるのだろう」
「なぜ服を着る事が許されるのだろう」
「なぜテレビを見れるのだろう」
「なぜゲームができるのだろう」
「なぜゲームソフトを買うことができるのだろう」
「なぜ音楽を聴く事を許されるのだろう」
「なぜレンタルショップで借りることができるのだろう」
「なぜ買い物をする事が許されるのだろう」
「なぜ学ぶ事を許されるのだろう」
などなど一つ一つの行動に疑問を感じ、自責の念に囚われる事の苦しさはわかるでしょうかね~。
自由にされる事ほど自責の念が増していくというのは皮肉なものです。
もっとも本来はこれらの行為というのは自尊心を増していくための行為なのかもしれませんけどね。(笑)
結局はおいらは少なくとも軽率に「生きている事は素晴らしい」という言葉を言えない人間だと言う事ですな。
身体の調子が悪いと心の調子は反比例して格段に心の調子を崩します。
昨日は強烈な腹痛を味わったので調子が悪いんですな。
まあ、寝れば何事もなかったかのようにケロッといつもの記事を書くんでしょうね。
本心というのはなかなか書かないものですな.......
正直な事を書くと「言うは易し、行うは難し」で実行する力を失って自決する機会を逸した事を後悔しています。
もし鬱病がここまで悪化していなかったなら、死んでやるというモチベーションが非常に高かったので何らかの方法で死んでいたかもしれません。
まあ、鬱病で死ねなかったことから長生きし、自分自身の人生設計よりも過分の多くの事を経験することができました。
そのことは良いと思っています。
ところでやはり基本的に自分自身の考えというのはあまり変わっていないな~.......
少し昨日書いた自分自身の努力を平衡の取れた方法で見て評価する事によって適切な「達成感」を得る事をしようと思います。
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