
人と知り合うと言うことを無意識に恐れているようです...................
人間として周りの方との円滑のコミュニケーションは不可欠です。
わたしはどちらかというとただ単に声をかけると言うことに躊躇いがない方でした。
段階としての知人、友人という関係になるにつれて怖くなっていきます。
理由は明白でした。
・わたしにはそこまでの価値が無い
という強烈な自己否定でした。
これは今も根付いていて、自己嫌悪と共に脈々とわたしの中に息づいてきました。
しかしながら徐々に自己を肯定するように努力するようになり、価値もそこそこ認められるようになってきた昨今です。
会話をするにしてもアイコタクトというのは重要です。
目には自分の有り様が出るとも言われていますし、わたしも他の人の目を見て状態を把握することは多いのは事実です。
状態判断としては多くのファクターがありますよね。
声や仕草、ボディーランゲージで判断します。
わたしはアイコンタクトが苦手で、目を合わせるということがとても苦手です。
ただ、以前よりはマシになってきているはずです。
わたしは非常に卑屈で歪んでいますからね。
とくに鬱病の酷い時期はまともな精神状態ではありませんでした。
現在進行形ではあるのですが、それでも鬱病が軽くなってきていることは感じています。
軽くなったとは言っても、一度鬱病になってしまうと
「脳に対するダメージは残ってしまい回復するのが難しい」
といわれています。
わたしの場合に長期にわたり、わずらい病院に通い続けています。
そしてわたしにとっての「ストレス源」に居続けることで何も出来ないと言うことも解っています。
よってわたしは現実逃避をするようになりました。
現実逃避をせざるを得なかったと書く方が正確なのでしょうね。
昨年から今年の夏の終わりぐらいまで、余りにも環境が酷すぎて身体が動かなくなりました。
甘えだと言われるとそうなのかもしれません。
病院にも行けず、家族や親族、クリスチャン達との関係が苦しくて苦しくて堪らなくなりました。
そして、もちろんですが仕事とも向き合えない状態に陥ってしまいました。
原因となったのは家族が所有する家を他人に貸すと言うことでしたね。
わたしの家族は
・狭い家で自分の部屋も持つことが出来ていない
・プライベートでも一人の時間も無く生活している
・自分の楽になれるスペースが無い
といったモノから何とかしようと改装に取り組んでいた時期でした。
思い出すと力が抜けて、当時のような状態になってしまうので思い出したくも無いのです。
肉体的に心臓や肺の辺りが空洞になるような感覚に陥ってしまいます。
少し思い出すだけでも辛いですね。
危険なのでこれで止めておこう。
誰かわたしをここから出して頂きたいですね。
何もする気にならないし、またあの時のように無気力、無感情になってしまいそうだ。
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