わたしは恥ずかしいことにいままで親におんぶにだっこで生きてきました.............
これは非常に恥ずかしいと共に、いまの環境を構築し引き起こしている要因から離れられないということが苦しくもあります。
普通に生きていくことがさも悪いことであるかのようにクリスチャンの集まりでは教えられ、世に依存することが悪行を犯すが如くに言われるのがわたしは納得できていません。
人間誰しも何らかの形で「世に依存している」と言うことを理解できていないのでしょうか。
神に頼って生きていくのが最も美しいクリスチャンであり、どんなに苦労してもどんなにお金が無く物を買えなくとも我慢して生きてけば
「神が全てを備えてくださる」
という教え方を欠かさず、年に数度は聴いています。
信仰心が篤く盲信されている方には頭が下がる思いがします。
しかし、わたしは良く思うのです。
確かに美しいでしょうし、努力されていることは認めます。
それが本当に美しく立派なことなのだろうか?と
わたしはちゃんとした仕事形態で仕事をし、ちゃんと仕事に「満足」をして生きていきたいと願ってきました。
それが頭から全てを否定されて
「クリスチャンとしての立場を確保し、多くの時間を捧げるのが当然」
と言われてきました。
ではこのように無責任に仰る方達は生活にどれほどの費用が必要か解っているのでしょうか。
間違いなく理解していると思われます。
なぜならば、各々が各家庭をもうけて生活されているからです。
生活費を単純に分析してみましょう。
基本的な費用
・家賃=40,000
・電気代=3,000
・水道代=2,000
・ガス代=3,000
・通信料=8,000
・食費=20,000
将来への投資
・年金=16,260
・生命保険=2,000
車関連
・車の維持費=10,000
・ガソリン代=12,000
季節
・灯油代=4,000
最低限、基本的に掛かる費用だけでも102,000円は必要になります。
独り暮らしであれば、そしてアルバイトであれば時給800円として「127.5時間」、8時間労働として「16日」です。
よくよく考えれば解ることですが、基本料金を稼ぐだけでも独り暮らしであれば絶望的ですね。
特にクリスチャンであれば生きてけません。
クリスチャンは「全○間○教」と呼ばれる伝道に打ち込むスタイルであれば毎月「70時間」、「補○開○」であれば「50時間」を費やすことになります。
わたしはこのスタイルを熱心に、そしていたって只管に真面目に行っている方だったと思われます。
なぜならば「移動時間」を伝道の時間に含めるのは間違っていると考え勘定に入れていなかったのでした。
そして毎月どう頑張っても時間が入らなくて「長○」や他の同じスタイルで働いておられる方達からは有り難い助言を沢山いただいた物でした。
わたしからしてみればなぜあれほど適当にやっているように見える方達が余裕で時間が入っているのか全く理解できずに苦しんだ記憶がありますね。
そして今から考えると、もしあの頃の奉仕の仕方で「移動時間」や「様々な形での証言」を加味すると軽く100時間ぐらいは入っていたでしょう。
補足しておくとわたしが現役の頃は「70時間」では無く「90時間」でしたね。
また面白い勘定の仕方だったのですが、月90時間としておきながら年間でトータルが「1,000時間となればO.K.」という変なルールもありました。
ということで目標は毎月83時間だったんですね。
しかしわたしの勘定の方法ではどう頑張っても70半ばまでしか入りませんでした。
伝道の日は朝から晩まで働く日はとことんまで働きました。
朝の9時から夜の11時ぐらいまでのこともありました。
食事の時間と移動の時間を抜くと12時間中で実質の奉仕時間を勘定すると半分ほどの7時間程度になっていましたね。
昼の食事は食べましたが、夕食は当然帰ってからでした。
こう考えるとわたしが奉仕時間として計算して良いのは1,5倍ぐらいかもしれず、あながち100時間が軽く入っていたというのも変な数字では無いことが解りますね。
また良く思い出すのですが、他の方達がゆっくり奉仕場所まで向かわれるのに対して早く現地について開始したいので車もスピードを出していた記憶もあります。
いまから思い返すとわたしはとことん馬鹿で、救いようが無いと言うことが解りますね。
それだけ純粋だったのかも知れませんが、多くの人にとって純粋で有れば有るほど疎ましく思う物なのかも知れません。
「純粋な言葉」ほど人を歪ませる物は無いのかも知れません。
教えを純粋に受け取りそれを実行しようとする人間が、純粋に受け取らず行動しようとしない人間にとっては邪魔だと考えても仕方がありませんよね。
よって無理難題をふっかけて「現実を見ろ」と言いたかったのかも知れません。
わたしは単純で馬鹿でしたので、学ぶと言葉を一生懸命に実行に移そうとしていたような気がします。
これは良い意味でもありますが、多くの場合に学んだことを純粋に実行しようとすることは多くの人にとって非常に愚かに映っていたのでしょうね。
わたしはある程度ですが、愚かだと思われていることも理解していましたし、それでも良いと思っていました。
それは助言に対しても適応しましたし、命をかけてそれらをどうにかして実行しようとしました。
ただ、助言が積み重なっていくと笑えることに確実に矛盾が生まれていきます。
それは当然の流れであり、仕方が無いことなのかも知れません。
「人間が助言をする条件」としてわたしが定めているのは「自分が出来ていること、実行できていること」です。
わたしは馬鹿で愚かですので、わたしは自分が出来ていたと思っていたことで助言していたこともあります。
ただ、わたしは自分が出来ていないことは前置きとして「自分は出来ていないのですが」とあらかじめことわることは欠かさないようにしていました。
わたしの基準では最低限のことが出来ていることで無ければ助言のカテゴリとして扱ってはならないという気持ちがあったんですな。
まして相手が良く考えているであろう事柄に対しては軽々と助言なんてしてはならないでしょう。
理由は分かりきっていますよね。
頭が悪くとも時間をかけて熟考し、考え抜かれた事柄というのは非常に完成度の高い精度のロジックが構築されているからです。
わたしにとってそのカテゴリが仕事に対しての事柄でした。
そしてわたしが愚かだったこととして全幅の信頼を置いていた「長○」数人と「両親」に相談したことだったんですね。
人が物事を重大な決断するに当たってやってはいけないことは、自分より考えようともしない人間に相談することです。
これは考える時間の長い人間にとって、とても広く見渡し、深く熟考し出た結論を信じそれに基づいて行動することが正しいと思われます。
当然のことながら、「神のご意志を行う事が優先されるべき」であることは間違いないでしょうね。
人は初期投資をしなければならないというのは当然のことだとわたしは考えてきたのです。
・仕事をするならば手に職をつけてある程度の収入を確保できるようにする方が合理的であり、効率的である
と考えることが「なぜ間違ったことだ」と言われるのかわたしには全く理解できませんでした。
クリスチャンの世界でおかしいと思うことは、人が生活するに当たって必ずお金が必要です。
しかし「金儲け」は悪だというレッテルを強烈に印象づけることにいとまがありません。
お金を得るのは絶対に「額に汗して、苦しみながら仕事をする」のが当然だと教えられます。
これは非常に偏った聖書的な教えであると言えるでしょう。
アダムが罪人になり、家族を養い自分が生きていくにあたっては「苦しみ、嘆き悲しみながら」生活していたということを、どうしても私たちにも適応させなければならないと躍起になっているように思います。
この考えに囚われている人達とはわたしは考え方を共にしたくはありません。
聖書には仕事というのは喜びの大きいモノである事を神は認められており、「神の賜物」とまで書かれているのです。
最近でこそ出版物や雑誌では仕事は「ヨロコビ」だと書かれることが多くなりましたが、5年程前までの出版物には直接的にも、間接的にも「仕事は責任」と言うニュアンスの書き方が多かったのです。
このような教えにずっと晒されてきたのですから、多くのクリスチャンにとっては仕事というモノは「責任=苦しいモノ」という論理は変わるまでに時間が掛かるでしょう。
どれだけ時間が掛かるかというと単純に教えられてきた時間と同じだけ掛かります。
わたしは早い段階で仕事に対しては日本人的な考え方をしていましたので余計に苦しみましたよね。
周りの近しい人間が、わたし以外ほぼ全て「仕事=苦しいモノ」と言う考え方をしていましたし、仕事からは「ヨロコビ」を得てはならないとガッツリ諭されていましたからね。
言葉にして「仕事を楽しんではならない」という内容のことを言っていましたもの。
これは間違い有りません。
特に長○には何度も何度もこの手の内容で諭されました。
その方にとっては当然そうだったのかも知れません。
それはそうですよ。
結婚されていましたし、快楽の延長線上にある子供をもうけて養う責任を負っていました。
彼にとっては仕事というのは苦しくて当然だったのかも知れませんね。
仕事を「苦しい」と感じていたということは彼も計画的に行われなければならない家族計画が破綻していたのかも知れません。
家族を計画的に考えていれば、楽しいと思わなければ間違いです。
確かに苦しいこともあるでしょうし、悲しいこともある事は間違いありません。
しかし平衡がとれている論理というのは基本的に「楽しく喜び、そして歓びの大きいモノ」であるはずなんですよ。
わたしなら家族を養う喜びをもって仕事を自分で選んでいるのですから、当然として仕事も喜んで行うべきです。
歓びの理由としては「仕事をやり遂げた達成感」が大きいでしょうし、仕事を完遂した事により付随的に「人から感謝される」事もあるでしょう。
クリスチャンへの教育で大事な点として
・仕事をやり遂げた事を理解すること
・そして自分のやり遂げた仕事を理解し、納得し、満足すること
でしょうね。
現在のクリスチャン教育の悪い点として
・人は不完全でまともに何事も行う事は出来ない
・そこから満足感を得るなんてもっての外だ
という考え方が蔓延しすぎです。
こんな考え方が蔓延している限りは若い人は無気力にもなりますし、活気も失っていきますし、離れていっても仕方が無いでしょう。
離れていく要因を作っているのは組織ですし、個々のクリスチャンであることは否めないでしょうね。
「仕事のチョイス」に対しては「本人の自由意志を尊重する」ことが非常に軽視されがちです。
いまでもそうでしょうね。
わたしはこのことで人生を持ち崩しました。
立て直そうと努力していますが、数年単位で掛かりそうです。
このようなこととまともに向き合おうとすると、自分が如何に愚かだったのかを痛感するので落ち込みますし、苦しみますし、悲しみに満ちますし、無力感にも満ち、物理的に力が入らないほど身体が脱力してしまいます。
ただ、このような人間が居り苦労しているということを知って戴きたいという事と気持ちと心の整理も兼ねて書いてみました。
手に職をつけて仕事をする事が良いとは言い切りません。
ただ、手に職をつけることで自分自身の自尊心が小さく余り無い人にとって.....(...これってわたしのことだったんですけれどね)、その原動力となるはずなんですよ。
手に職をつけるということは仕事を成し遂げるベースが出来るということです。
仕事を一つ完遂する事が出来るとそれは自尊心を高めることが出来るようになります。
完遂することは、単純で非常に解りやすい「成功体験」なんですよ。
それを小さいことから大きいことまで得られるようになることによって人は自尊心を構築することが出来るようになるのです。
先ほども書きましたが、クリスチャンは人を蔑みすぎです。
特にクリスチャンとして真面目に努力し、直向きに頑張っておられる人ほど貶し、蔑むような書き方(協会の出版物)や言い方(個々人のクリスチャン)が多すぎました。
それを急に舵を切り旋回しようとしても、世界は急には変わりません。
まして人なんてもっとも変わりにくい部類のカテゴリなのです。
謙遜とか言っておきながら考え方を簡単に変えようとしない方々が多いのがクリスチャンなのですよ。
実際にまともな方々は協会の指針、方針が変わった時点で直ぐに適応するように努力しますし、自分自身の考え方を変える努力をして生活全般に反映させるでしょう。
しかしそこまで考え実行できる人は極々少数です。
書き方を悪くすると、まだ世間一般で生活されている方が常識的である事が少なくないのがクリスチャンの世界です。
確かに冷たく他人行儀なのは間違い有りませんけどね。
わたしは世間一般の人のことを悪く言い続けていることも納得していないんですよね。
「全く関わるな」というクリスチャンの価値観が受け入れられていません。
これも言い面と悪い面があるからですね。
そのこともまたいずれ書きたいモノです。
これは非常に恥ずかしいと共に、いまの環境を構築し引き起こしている要因から離れられないということが苦しくもあります。
普通に生きていくことがさも悪いことであるかのようにクリスチャンの集まりでは教えられ、世に依存することが悪行を犯すが如くに言われるのがわたしは納得できていません。
人間誰しも何らかの形で「世に依存している」と言うことを理解できていないのでしょうか。
神に頼って生きていくのが最も美しいクリスチャンであり、どんなに苦労してもどんなにお金が無く物を買えなくとも我慢して生きてけば
「神が全てを備えてくださる」
という教え方を欠かさず、年に数度は聴いています。
信仰心が篤く盲信されている方には頭が下がる思いがします。
しかし、わたしは良く思うのです。
確かに美しいでしょうし、努力されていることは認めます。
それが本当に美しく立派なことなのだろうか?と
わたしはちゃんとした仕事形態で仕事をし、ちゃんと仕事に「満足」をして生きていきたいと願ってきました。
それが頭から全てを否定されて
「クリスチャンとしての立場を確保し、多くの時間を捧げるのが当然」
と言われてきました。
ではこのように無責任に仰る方達は生活にどれほどの費用が必要か解っているのでしょうか。
間違いなく理解していると思われます。
なぜならば、各々が各家庭をもうけて生活されているからです。
生活費を単純に分析してみましょう。
基本的な費用
・家賃=40,000
・電気代=3,000
・水道代=2,000
・ガス代=3,000
・通信料=8,000
・食費=20,000
将来への投資
・年金=16,260
・生命保険=2,000
車関連
・車の維持費=10,000
・ガソリン代=12,000
季節
・灯油代=4,000
最低限、基本的に掛かる費用だけでも102,000円は必要になります。
独り暮らしであれば、そしてアルバイトであれば時給800円として「127.5時間」、8時間労働として「16日」です。
よくよく考えれば解ることですが、基本料金を稼ぐだけでも独り暮らしであれば絶望的ですね。
特にクリスチャンであれば生きてけません。
クリスチャンは「全○間○教」と呼ばれる伝道に打ち込むスタイルであれば毎月「70時間」、「補○開○」であれば「50時間」を費やすことになります。
わたしはこのスタイルを熱心に、そしていたって只管に真面目に行っている方だったと思われます。
なぜならば「移動時間」を伝道の時間に含めるのは間違っていると考え勘定に入れていなかったのでした。
そして毎月どう頑張っても時間が入らなくて「長○」や他の同じスタイルで働いておられる方達からは有り難い助言を沢山いただいた物でした。
わたしからしてみればなぜあれほど適当にやっているように見える方達が余裕で時間が入っているのか全く理解できずに苦しんだ記憶がありますね。
そして今から考えると、もしあの頃の奉仕の仕方で「移動時間」や「様々な形での証言」を加味すると軽く100時間ぐらいは入っていたでしょう。
補足しておくとわたしが現役の頃は「70時間」では無く「90時間」でしたね。
また面白い勘定の仕方だったのですが、月90時間としておきながら年間でトータルが「1,000時間となればO.K.」という変なルールもありました。
ということで目標は毎月83時間だったんですね。
しかしわたしの勘定の方法ではどう頑張っても70半ばまでしか入りませんでした。
伝道の日は朝から晩まで働く日はとことんまで働きました。
朝の9時から夜の11時ぐらいまでのこともありました。
食事の時間と移動の時間を抜くと12時間中で実質の奉仕時間を勘定すると半分ほどの7時間程度になっていましたね。
昼の食事は食べましたが、夕食は当然帰ってからでした。
こう考えるとわたしが奉仕時間として計算して良いのは1,5倍ぐらいかもしれず、あながち100時間が軽く入っていたというのも変な数字では無いことが解りますね。
また良く思い出すのですが、他の方達がゆっくり奉仕場所まで向かわれるのに対して早く現地について開始したいので車もスピードを出していた記憶もあります。
いまから思い返すとわたしはとことん馬鹿で、救いようが無いと言うことが解りますね。
それだけ純粋だったのかも知れませんが、多くの人にとって純粋で有れば有るほど疎ましく思う物なのかも知れません。
「純粋な言葉」ほど人を歪ませる物は無いのかも知れません。
教えを純粋に受け取りそれを実行しようとする人間が、純粋に受け取らず行動しようとしない人間にとっては邪魔だと考えても仕方がありませんよね。
よって無理難題をふっかけて「現実を見ろ」と言いたかったのかも知れません。
わたしは単純で馬鹿でしたので、学ぶと言葉を一生懸命に実行に移そうとしていたような気がします。
これは良い意味でもありますが、多くの場合に学んだことを純粋に実行しようとすることは多くの人にとって非常に愚かに映っていたのでしょうね。
わたしはある程度ですが、愚かだと思われていることも理解していましたし、それでも良いと思っていました。
それは助言に対しても適応しましたし、命をかけてそれらをどうにかして実行しようとしました。
ただ、助言が積み重なっていくと笑えることに確実に矛盾が生まれていきます。
それは当然の流れであり、仕方が無いことなのかも知れません。
「人間が助言をする条件」としてわたしが定めているのは「自分が出来ていること、実行できていること」です。
わたしは馬鹿で愚かですので、わたしは自分が出来ていたと思っていたことで助言していたこともあります。
ただ、わたしは自分が出来ていないことは前置きとして「自分は出来ていないのですが」とあらかじめことわることは欠かさないようにしていました。
わたしの基準では最低限のことが出来ていることで無ければ助言のカテゴリとして扱ってはならないという気持ちがあったんですな。
まして相手が良く考えているであろう事柄に対しては軽々と助言なんてしてはならないでしょう。
理由は分かりきっていますよね。
頭が悪くとも時間をかけて熟考し、考え抜かれた事柄というのは非常に完成度の高い精度のロジックが構築されているからです。
わたしにとってそのカテゴリが仕事に対しての事柄でした。
そしてわたしが愚かだったこととして全幅の信頼を置いていた「長○」数人と「両親」に相談したことだったんですね。
人が物事を重大な決断するに当たってやってはいけないことは、自分より考えようともしない人間に相談することです。
これは考える時間の長い人間にとって、とても広く見渡し、深く熟考し出た結論を信じそれに基づいて行動することが正しいと思われます。
当然のことながら、「神のご意志を行う事が優先されるべき」であることは間違いないでしょうね。
人は初期投資をしなければならないというのは当然のことだとわたしは考えてきたのです。
・仕事をするならば手に職をつけてある程度の収入を確保できるようにする方が合理的であり、効率的である
と考えることが「なぜ間違ったことだ」と言われるのかわたしには全く理解できませんでした。
クリスチャンの世界でおかしいと思うことは、人が生活するに当たって必ずお金が必要です。
しかし「金儲け」は悪だというレッテルを強烈に印象づけることにいとまがありません。
お金を得るのは絶対に「額に汗して、苦しみながら仕事をする」のが当然だと教えられます。
これは非常に偏った聖書的な教えであると言えるでしょう。
アダムが罪人になり、家族を養い自分が生きていくにあたっては「苦しみ、嘆き悲しみながら」生活していたということを、どうしても私たちにも適応させなければならないと躍起になっているように思います。
この考えに囚われている人達とはわたしは考え方を共にしたくはありません。
聖書には仕事というのは喜びの大きいモノである事を神は認められており、「神の賜物」とまで書かれているのです。
最近でこそ出版物や雑誌では仕事は「ヨロコビ」だと書かれることが多くなりましたが、5年程前までの出版物には直接的にも、間接的にも「仕事は責任」と言うニュアンスの書き方が多かったのです。
このような教えにずっと晒されてきたのですから、多くのクリスチャンにとっては仕事というモノは「責任=苦しいモノ」という論理は変わるまでに時間が掛かるでしょう。
どれだけ時間が掛かるかというと単純に教えられてきた時間と同じだけ掛かります。
わたしは早い段階で仕事に対しては日本人的な考え方をしていましたので余計に苦しみましたよね。
周りの近しい人間が、わたし以外ほぼ全て「仕事=苦しいモノ」と言う考え方をしていましたし、仕事からは「ヨロコビ」を得てはならないとガッツリ諭されていましたからね。
言葉にして「仕事を楽しんではならない」という内容のことを言っていましたもの。
これは間違い有りません。
特に長○には何度も何度もこの手の内容で諭されました。
その方にとっては当然そうだったのかも知れません。
それはそうですよ。
結婚されていましたし、快楽の延長線上にある子供をもうけて養う責任を負っていました。
彼にとっては仕事というのは苦しくて当然だったのかも知れませんね。
仕事を「苦しい」と感じていたということは彼も計画的に行われなければならない家族計画が破綻していたのかも知れません。
家族を計画的に考えていれば、楽しいと思わなければ間違いです。
確かに苦しいこともあるでしょうし、悲しいこともある事は間違いありません。
しかし平衡がとれている論理というのは基本的に「楽しく喜び、そして歓びの大きいモノ」であるはずなんですよ。
わたしなら家族を養う喜びをもって仕事を自分で選んでいるのですから、当然として仕事も喜んで行うべきです。
歓びの理由としては「仕事をやり遂げた達成感」が大きいでしょうし、仕事を完遂した事により付随的に「人から感謝される」事もあるでしょう。
クリスチャンへの教育で大事な点として
・仕事をやり遂げた事を理解すること
・そして自分のやり遂げた仕事を理解し、納得し、満足すること
でしょうね。
現在のクリスチャン教育の悪い点として
・人は不完全でまともに何事も行う事は出来ない
・そこから満足感を得るなんてもっての外だ
という考え方が蔓延しすぎです。
こんな考え方が蔓延している限りは若い人は無気力にもなりますし、活気も失っていきますし、離れていっても仕方が無いでしょう。
離れていく要因を作っているのは組織ですし、個々のクリスチャンであることは否めないでしょうね。
「仕事のチョイス」に対しては「本人の自由意志を尊重する」ことが非常に軽視されがちです。
いまでもそうでしょうね。
わたしはこのことで人生を持ち崩しました。
立て直そうと努力していますが、数年単位で掛かりそうです。
このようなこととまともに向き合おうとすると、自分が如何に愚かだったのかを痛感するので落ち込みますし、苦しみますし、悲しみに満ちますし、無力感にも満ち、物理的に力が入らないほど身体が脱力してしまいます。
ただ、このような人間が居り苦労しているということを知って戴きたいという事と気持ちと心の整理も兼ねて書いてみました。
手に職をつけて仕事をする事が良いとは言い切りません。
ただ、手に職をつけることで自分自身の自尊心が小さく余り無い人にとって.....(...これってわたしのことだったんですけれどね)、その原動力となるはずなんですよ。
手に職をつけるということは仕事を成し遂げるベースが出来るということです。
仕事を一つ完遂する事が出来るとそれは自尊心を高めることが出来るようになります。
完遂することは、単純で非常に解りやすい「成功体験」なんですよ。
それを小さいことから大きいことまで得られるようになることによって人は自尊心を構築することが出来るようになるのです。
先ほども書きましたが、クリスチャンは人を蔑みすぎです。
特にクリスチャンとして真面目に努力し、直向きに頑張っておられる人ほど貶し、蔑むような書き方(協会の出版物)や言い方(個々人のクリスチャン)が多すぎました。
それを急に舵を切り旋回しようとしても、世界は急には変わりません。
まして人なんてもっとも変わりにくい部類のカテゴリなのです。
謙遜とか言っておきながら考え方を簡単に変えようとしない方々が多いのがクリスチャンなのですよ。
実際にまともな方々は協会の指針、方針が変わった時点で直ぐに適応するように努力しますし、自分自身の考え方を変える努力をして生活全般に反映させるでしょう。
しかしそこまで考え実行できる人は極々少数です。
書き方を悪くすると、まだ世間一般で生活されている方が常識的である事が少なくないのがクリスチャンの世界です。
確かに冷たく他人行儀なのは間違い有りませんけどね。
わたしは世間一般の人のことを悪く言い続けていることも納得していないんですよね。
「全く関わるな」というクリスチャンの価値観が受け入れられていません。
これも言い面と悪い面があるからですね。
そのこともまたいずれ書きたいモノです。