おいらはオタク声である........
だから朗読どころか会話でさえオタッキーな口調になる。
結果はすこやかな声にあこがれるんですな。(笑)
でも自分ですすんで直そうとは思っていない........
所詮「付け焼き刃」では意味が無いとか、接客バージョンの声なんて詐欺だろ!とか、別世界のことなんだもんとか考えてしまうんだす。
なんでこんな記事を書いているのかと言うと今日はクリスチャンの集会で「聖書朗読」があたっているからなんです。
おいらは鬱病である事をおいらの参加してる集まりの人たちはみんな知っている。
だから教訓者は朗読のみをおいらに当ててくれる。
先日の割り当てで話を作ったのは休む人が居るからつくってみない?というノリで教訓者から話があったのでつくってみる事になったのだ。
だから実質の話を作る割り当てのオファーはここ数年全く無いんですな。
これは寂しいですよ。
おいらは勉強するのが好きなんで話を作るのも好きなんですな。
しかし聖書通読が嫌いな訳では全く無い。
聖書通読は特権です。
おいらが人の前で聖書の一部を朗読しても良いのか?とはなはだ疑問に感じるぐらいです。
聖書の言葉は人間が扱う「言葉」の中でとても貴重で神聖で神からの祝福が伴っているのは確実なのです。
だからおいらなんかが簡単に朗読してはいけないものだと思う訳です。
それに比べると自分で資料を集めて作る話はまだマシだと思うんですな。
神の精霊に注がれて書かれている資料と言っても人間の考え方が少し混じっている事を感じるんです。
だからそれを見極めた上で正しい知識を伝えることができれば良いと考えることができます。
上記の結果、重要なのは「聖書通読」になるんです。
イエス・キリストも公の場で聖書通読をされました。
それは聖書に書かれている記述から理解できます。
こう考えると聖書通読の割り当ては重いんですな。
練習に積む練習をしなければならないのは当然でトチったり、どもったりすると自分に殺意を覚える訳です。
改善の余地がいくらでもあるのにベストを尽くさない自分を殺してやりたいと思うんですな。
その点で自分でつくる話というのはある程度は融通が利くんですな。
だから自分が普段使っている話し言葉に近い言葉遣いで話を作れる訳です。
ということはあまり言葉を間違ったりしないという事ですね。
それに気が楽なのです。
聖書通読はとても大切な役目です。
どの割り当てにも言えますけどね。
特に聖書の通読は大切だと考えているおいらにとっては一番重い割り当てが聖書通読になるんですな。
え~っと.......おいらってくどいな。
関西育ちなので許して下さい。(笑)
理由は漫才や上方落語を聞いていただくとわかると思います。(爆)
だから朗読どころか会話でさえオタッキーな口調になる。
結果はすこやかな声にあこがれるんですな。(笑)
でも自分ですすんで直そうとは思っていない........
所詮「付け焼き刃」では意味が無いとか、接客バージョンの声なんて詐欺だろ!とか、別世界のことなんだもんとか考えてしまうんだす。
なんでこんな記事を書いているのかと言うと今日はクリスチャンの集会で「聖書朗読」があたっているからなんです。
おいらは鬱病である事をおいらの参加してる集まりの人たちはみんな知っている。
だから教訓者は朗読のみをおいらに当ててくれる。
先日の割り当てで話を作ったのは休む人が居るからつくってみない?というノリで教訓者から話があったのでつくってみる事になったのだ。
だから実質の話を作る割り当てのオファーはここ数年全く無いんですな。
これは寂しいですよ。
おいらは勉強するのが好きなんで話を作るのも好きなんですな。
しかし聖書通読が嫌いな訳では全く無い。
聖書通読は特権です。
おいらが人の前で聖書の一部を朗読しても良いのか?とはなはだ疑問に感じるぐらいです。
聖書の言葉は人間が扱う「言葉」の中でとても貴重で神聖で神からの祝福が伴っているのは確実なのです。
だからおいらなんかが簡単に朗読してはいけないものだと思う訳です。
それに比べると自分で資料を集めて作る話はまだマシだと思うんですな。
神の精霊に注がれて書かれている資料と言っても人間の考え方が少し混じっている事を感じるんです。
だからそれを見極めた上で正しい知識を伝えることができれば良いと考えることができます。
上記の結果、重要なのは「聖書通読」になるんです。
イエス・キリストも公の場で聖書通読をされました。
それは聖書に書かれている記述から理解できます。
こう考えると聖書通読の割り当ては重いんですな。
練習に積む練習をしなければならないのは当然でトチったり、どもったりすると自分に殺意を覚える訳です。
改善の余地がいくらでもあるのにベストを尽くさない自分を殺してやりたいと思うんですな。
その点で自分でつくる話というのはある程度は融通が利くんですな。
だから自分が普段使っている話し言葉に近い言葉遣いで話を作れる訳です。
ということはあまり言葉を間違ったりしないという事ですね。
それに気が楽なのです。
聖書通読はとても大切な役目です。
どの割り当てにも言えますけどね。
特に聖書の通読は大切だと考えているおいらにとっては一番重い割り当てが聖書通読になるんですな。
え~っと.......おいらってくどいな。
関西育ちなので許して下さい。(笑)
理由は漫才や上方落語を聞いていただくとわかると思います。(爆)