Christianの方から夏休みの勉強を見てやってくれと言われたんですよね...........
んで2回目を今日行ってきました。
でも学んでいることを見ているとおいらが学生だった頃よりも簡単に感じます。
科学しかまだ見ていないのですが、大人になると「学習の効率化」を自然と模索するようになります。
大人というのは仕事で必然的に学習することを求められていきます。
そして学習するだけでは意味がないことも気がつくでしょう。
人間というのは成長する生き物です。
仕事としている事を続けその仕事が身に付くと自然とその仕事自体を改善しようとするようになります。
様々な分野で進歩が見られるのはこのような方達が一生懸命に改善したり新たな発見をしたりして得られた産物なのです。
Computerの分野だけでも凄い早さで進歩していることを感じますし、その二次産業のようなDigital Cameraの発展も余りにも早いと感じますな。
加えて学生が学習することの中でも特筆すべき分野は数学の分野です。
微分や積分などは二昔前は大学生が学ぶモノだったのに今では下手をすると中学生まで学ぶ必要性に迫られています。
「ゆとり教育」の弊害にあっておいらはこの数学という学問をちゃんと学んだことがありません。
数学だけではないですな、5教科すべてでまともな教育を施されてこなかったんだと勉強を見ていると感じるようになりました。
でも今なら学ぶことが出来ますし時間もあるんですよね。
しかしInternetとTelevisionというのは麻薬のような作用があって使用できる環境にいるのであれば常に使用していなければならないという強迫観念に囚われます。
これは駄目ですな。
かなりのSaveが出来るようになってきたのですが、Televisionがついていないと不安が起こりますし、Televisionというのは音が発生します。
んでこの音というのが学習意欲を根こそぎ刈っていきます。
学習する条件として以前に少し書いたのですが、理想は無音室がもっとも理想的な環境だと言い切れます。
また気を散らす原因が無いことも重要な要素です。
つまりComputerでInternetが出来る所から離れることが重要なんですな。
加えて他の要素も考慮しなければなりません。
理想を書くのであれば「緑(森林)」が見えてゆったりした雰囲気も重要でしょう。
切迫した状態では人間というのは学習には相応しい精神状態では望めないでしょう。
理由は追い込まれている状態に飲み込まれている訳で本来の目的である「学習」は優先順位のかなり後ろの方になってしまうからです。
そして追い込まれている状況というのは学習することを「辛いこと」、「苦しいこと」、「嫌なこと」と結びつけて条件反射を起こしてしまう条件付けになってしまうんですな。
人間だけではなく動物というのは一度条件反射を身につけてしまうとその条件反射から離れることが難しくなります。
よって教える人間というのは「学ぶことから得られる益」も教える必要があります。
しかし最も重要なのは学ぶことは「楽しい」という条件反射でそれを得させる為には一つの事を学ぶことでも達成感を感じさせ「うれしい」という感情を植え付けることなのでしょう。
多くの親が行っている「勉強しなければならない」というImageは殆どの場合に悪影響です。
勉強から益を得ることの重要性と達成感を与えて、そしてそれらからもたらされる「楽しい」という感情が大切です。
おいらは「学校の先生」にも「家の親」にも「Christianの知人」にも学ぶことから来る辛さしか教わってきませんでした。
しかしおいらが「学ぶことが楽しい」と感じる思考を保てたのは聖書を学んで得られた神の言葉からの導きによる達成感を感じる方法でした。
資格取得もおいらは学生時代の資格は用いる気がありませんので「絵に描いた餅」でしかありませんが、一応資格を取ったという事実も支えになったのかも知れないな。
加えて上に書いた以外の周りの人間の評価も良かったのかも知れません。
学生時代の学友達は非常に良い人間達で良いことも悪いことも楽しくやっていたんですな。
ところで学習することを止める人がいます。
学習面での成長というのは死ぬまで続く訳で「悟った」等と言っている方を見ていて悟りに境地に達したという言葉を聞いても何も感じないんですな。
学習面での成長というのは止めた時点で学習する面では人間は「死ぬことしかなくなる」訳です。
学習面で死ぬということは無活動を意味します。
この無活動というのは、”特に”学習することの無活動というのは人の心に「苛立ち」や「虚しさ」しか発生させなくなります。
年を取っても何かしらの活動によって学ぼうとし続ける人間には顔に生気がありますが、学習することをしなくなった人間の顔は眉間にしわを寄せ自分の考えに固執し「他人の意見は聞くに値しないモノだ」という人間としては欠陥とも言える状態にまでなります。
また短気になりヒステリーを起こしやすくし精神面での苦痛を味わうことになります。
おいらの父上の兄上が「悟り」を得たと述べていて少し父上と話をしていることを聴いていたのですが、所詮は人間の中での「悟り」です。
そして「悟り」を得た人間というのは怒ることってあまり無いというImageがあるのですが怒りまくっていて父上に「何を抜かしているのだ」的な事を怒鳴っていました。
「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉がまさにぴったりな状況でしたな。
年を取っていますが父上の方が落ち着いているような気がしました。
これはChristianになる前からなのですが、父上がもっとも大人な兄弟なんだとおいら的に結論しています。
父上は我慢強く、怒ることに遅く、忍耐強い人間です。
これは客観的に離れてみて感じた事でおいらは父上のような人間になりたいとさえ考えています。
確かに人々の見地では人間の見地では父上の一つ上の兄上がもっともまともな人間に写ることでしょう。
しかし聖書的見地で見るならば父上の行動の動機がもっとも相応しいモノなのだという結論に達するんですな。
これはおいらが家族だからという理由を感じられるかも知れませんが、可能な限り主観を捨てて客観的に見て、そこから更に家族だという感情を差し引いてみても父上は人間が出来ています。
んで2回目を今日行ってきました。
でも学んでいることを見ているとおいらが学生だった頃よりも簡単に感じます。
科学しかまだ見ていないのですが、大人になると「学習の効率化」を自然と模索するようになります。
大人というのは仕事で必然的に学習することを求められていきます。
そして学習するだけでは意味がないことも気がつくでしょう。
人間というのは成長する生き物です。
仕事としている事を続けその仕事が身に付くと自然とその仕事自体を改善しようとするようになります。
様々な分野で進歩が見られるのはこのような方達が一生懸命に改善したり新たな発見をしたりして得られた産物なのです。
Computerの分野だけでも凄い早さで進歩していることを感じますし、その二次産業のようなDigital Cameraの発展も余りにも早いと感じますな。
加えて学生が学習することの中でも特筆すべき分野は数学の分野です。
微分や積分などは二昔前は大学生が学ぶモノだったのに今では下手をすると中学生まで学ぶ必要性に迫られています。
「ゆとり教育」の弊害にあっておいらはこの数学という学問をちゃんと学んだことがありません。
数学だけではないですな、5教科すべてでまともな教育を施されてこなかったんだと勉強を見ていると感じるようになりました。
でも今なら学ぶことが出来ますし時間もあるんですよね。
しかしInternetとTelevisionというのは麻薬のような作用があって使用できる環境にいるのであれば常に使用していなければならないという強迫観念に囚われます。
これは駄目ですな。
かなりのSaveが出来るようになってきたのですが、Televisionがついていないと不安が起こりますし、Televisionというのは音が発生します。
んでこの音というのが学習意欲を根こそぎ刈っていきます。
学習する条件として以前に少し書いたのですが、理想は無音室がもっとも理想的な環境だと言い切れます。
また気を散らす原因が無いことも重要な要素です。
つまりComputerでInternetが出来る所から離れることが重要なんですな。
加えて他の要素も考慮しなければなりません。
理想を書くのであれば「緑(森林)」が見えてゆったりした雰囲気も重要でしょう。
切迫した状態では人間というのは学習には相応しい精神状態では望めないでしょう。
理由は追い込まれている状態に飲み込まれている訳で本来の目的である「学習」は優先順位のかなり後ろの方になってしまうからです。
そして追い込まれている状況というのは学習することを「辛いこと」、「苦しいこと」、「嫌なこと」と結びつけて条件反射を起こしてしまう条件付けになってしまうんですな。
人間だけではなく動物というのは一度条件反射を身につけてしまうとその条件反射から離れることが難しくなります。
よって教える人間というのは「学ぶことから得られる益」も教える必要があります。
しかし最も重要なのは学ぶことは「楽しい」という条件反射でそれを得させる為には一つの事を学ぶことでも達成感を感じさせ「うれしい」という感情を植え付けることなのでしょう。
多くの親が行っている「勉強しなければならない」というImageは殆どの場合に悪影響です。
勉強から益を得ることの重要性と達成感を与えて、そしてそれらからもたらされる「楽しい」という感情が大切です。
おいらは「学校の先生」にも「家の親」にも「Christianの知人」にも学ぶことから来る辛さしか教わってきませんでした。
しかしおいらが「学ぶことが楽しい」と感じる思考を保てたのは聖書を学んで得られた神の言葉からの導きによる達成感を感じる方法でした。
資格取得もおいらは学生時代の資格は用いる気がありませんので「絵に描いた餅」でしかありませんが、一応資格を取ったという事実も支えになったのかも知れないな。
加えて上に書いた以外の周りの人間の評価も良かったのかも知れません。
学生時代の学友達は非常に良い人間達で良いことも悪いことも楽しくやっていたんですな。
ところで学習することを止める人がいます。
学習面での成長というのは死ぬまで続く訳で「悟った」等と言っている方を見ていて悟りに境地に達したという言葉を聞いても何も感じないんですな。
学習面での成長というのは止めた時点で学習する面では人間は「死ぬことしかなくなる」訳です。
学習面で死ぬということは無活動を意味します。
この無活動というのは、”特に”学習することの無活動というのは人の心に「苛立ち」や「虚しさ」しか発生させなくなります。
年を取っても何かしらの活動によって学ぼうとし続ける人間には顔に生気がありますが、学習することをしなくなった人間の顔は眉間にしわを寄せ自分の考えに固執し「他人の意見は聞くに値しないモノだ」という人間としては欠陥とも言える状態にまでなります。
また短気になりヒステリーを起こしやすくし精神面での苦痛を味わうことになります。
おいらの父上の兄上が「悟り」を得たと述べていて少し父上と話をしていることを聴いていたのですが、所詮は人間の中での「悟り」です。
そして「悟り」を得た人間というのは怒ることってあまり無いというImageがあるのですが怒りまくっていて父上に「何を抜かしているのだ」的な事を怒鳴っていました。
「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉がまさにぴったりな状況でしたな。
年を取っていますが父上の方が落ち着いているような気がしました。
これはChristianになる前からなのですが、父上がもっとも大人な兄弟なんだとおいら的に結論しています。
父上は我慢強く、怒ることに遅く、忍耐強い人間です。
これは客観的に離れてみて感じた事でおいらは父上のような人間になりたいとさえ考えています。
確かに人々の見地では人間の見地では父上の一つ上の兄上がもっともまともな人間に写ることでしょう。
しかし聖書的見地で見るならば父上の行動の動機がもっとも相応しいモノなのだという結論に達するんですな。
これはおいらが家族だからという理由を感じられるかも知れませんが、可能な限り主観を捨てて客観的に見て、そこから更に家族だという感情を差し引いてみても父上は人間が出来ています。