伸ちゃんのブログ

ひたちなか市にある、お寺の住職のブログ
毎朝の境内の一コマと坊主の一言を毎日更新中

今日も気をつけていきましょう

2008年05月20日 | Weblog
強い雨が降っています。午前中がピークみたいですね。
できれば長靴で表に出たいところです。

こんなときかわいそうなのが、子ども達の登下校ですね。
どうしても歩いて学校まで行かなくてはいけません。
気候が不安定なのは私の時代よりひどいかもしれませんから
現代の子ども達は、よりたくましく生きていかないといけないのかもしれません。
子ども達のことを思うならあえて手を出さないで自分達でどうにかするという
ことを学んでいかせないといけないんですよね。
いずれ独りで生きていかなければならないのですから。

自分こそ自分の救済者である。他人がどうして自分の救済者であろうか。
自己をよくととのえることで、得難い救済を得る。  『法句経』

ある行者が「どんなに苦行をしてもたくさんの苦しみがあります。どうか、わたしを救ってください」とお願いすると、お釈迦様は「わたしはだれも救うことはしません。あなたが自分で真理を発見してみなさい」といわれました。
「わたしは道は説くけれども、それを実践するのは、あなた方一人ひとりの自由意志です。みずから実践して、そして体験としてつかめばよい」と。

結局自分自身の実践・体験のなかで良き生き方をつかまければいけません。
今日の場合、「長靴はいて車に気をつけるんだよ!!」としっかりいってあげることが親の役目なんでしょうね。
親も子どもも、しっかり気をつけて行きましょう!



自覚

2008年05月19日 | Weblog
寒くもなく、あたたか過ぎず、ちょうどいい感じの朝です。
でも台風4号が近づいているようで今晩から明日は雨がひどくなるそうですね。
嵐の前の静けさに当てはまる朝かもしれません。
この時期にすでに台風の影響をうけるなんて、おかしくなってますね。
“原因と結果の法則”は以前ブログで触れましたが、気候の異常はまさに
法則にしたがって起きています。

“環境難民”・・・海面上昇や砂漠化、森林伐採など、環境・気候の著しい変化によって居住地を離れることを余儀なくされた人々のこと。

環境難民といわれる人はおよそ2400万人にもなるそうです。
ミャンマーサイクロンの被災者は含まれていませんから今後その数は増え続けるでしょう。
原因は私達が便利な生活を送る中で排出し続けています。
結果は自然災害として現れます。自然災害を途中で止めることは無理です。
対策は、温暖化ガス排出抑制・災害への備え・緊急支援だけです。
しかし何より必要なのは私達一人一人の自覚です。
ミャンマーサイクロンクラスの災害は今後も繰り返されるでしょう。
とてもつらい報道がたえず流されるかもしれません。
急に異常気候が止むことは考えられませんが、この状況を引き伸ばすのはつらすぎます。
自覚し、行動する以外に救いの道はありません。
地道に生活の中で習慣として対策を行っていきましょう。
生きとし生けるもののために。


利他(りた)

2008年05月18日 | Weblog
今日はいい天気になるようですね。
娘から「今は夏なの?、春なの?」とたずねられました。
暦のうえでは夏だけど・・・なんていったらいいのかな~
と少々困ってしまいました。年間を通してはとてもいい季節ですが、
初夏があてはまるのでしょうかね。
どちらにしてもまだ湿気が低くて昼間が20度くらいというのは過ごしやすいですね。

昨晩なじみのバイクショップでジャズライブが催されました。
新店舗3周年記念ということで、ツーリングなどのイベントはお手の物のオーナーも
こんな企画は始めてらしく緊張していたようでしたが、
とても盛り上がりいい感じでアンコールまでいっちゃいました。

普段と違うことを行うのはとても勇気とエネルギーを必要とします。
私どもの寺もチャリティーコンサートやチャリティーウォーク、落語会やら
クラシックギターコンサート、タイ舞踊などなど行ってきましたが、最初の一歩
を踏み出すのはやはり大変でした。
「今やらなければいけない」という使命感みたいなものが自分を動かしたわけですが、
そこまで自分を動かしてくれる周りの人々の強い力が後ろから押してくれたんですよね。
人と人との係わり合いがあってはじめて企画が動き始めるし、喜んでもらいたいという共通の思いが
手助けしてくださる方々を結び付けてくれます。

利他(りた)・・・他者を利益(りやく)すること
自分以外の人に恵みを与えることを利他行(りたぎょう)と佛教ではいいますが、
寺だろうが何であろうが、人に喜んでもらいたいという思いが物事を動かす原動力になるんですよね。
“利他”という行いを大切に、みんなで行っていきたいというのが私のおもいであります。
(今日は長すぎてすみません)



胸に留めていて

2008年05月17日 | Weblog
まだ朝は寒いですが、昼間は暖かくなるようですね。

また週末になちゃいました。振り返ると前半は雨で寒く
後半は回復というかんじでしたね。月曜12日に中国で発生した地震
は日を追うごとに被害の甚大さが見えてきました。
ミャンマーは相変わらず軍事政権が国内への干渉をきらっているため、
国民への救助は進んでいないようです。(隣国からの医療チームはやっと入国しましたが)
サイクロンの被害状況は未だはっきりしていない状態ですが、
2週間を過ぎてしまうと新聞が扱う記事も小さくなってしまってます。
とにかく二つの甚大な災害にゆれた一週間でした。
進まぬ救助の中で路頭に迷いおなかをすかせている家族の映像はとても見ていてつらいものがあります。

世界には恐ろしいほど苦しんでいる国民がいるのに報じられることがない国もたくさんあります。
中央アフリカ共和国、コンゴ、ソマリア、チェチェン、コロンビア、・・・・どの国をとっても大変な人道支援を必要としています。
今回の二つの災害に限らず、苦しんでいる国々がたくさんあるということも知っていてください。
そういう国への“関心”も持っていてください。
「わが身に引きくらべて」・・・というお釈迦様の鉄則から私達も日常の中で見えていなかった何かが見えてくると思います。
それは人としていつも胸に留めていなくてはいけないことだと思います。





真の勇者

2008年05月16日 | Weblog
湿気がないちょっと冷たい風が吹く朝です。
雲の位置が高いようにも思われます。

昨年末より仕事量が増えたせいもあって、続けていた運動も
ぱったりとやらなくなり、脂肪が少々目立ってきていました。
仕事を言い訳にしていたわけなんですが、ここで一念発起、
特に腹筋を鍛えるメニューを昨日からはじめることにしました。
はっきり言って「きついっす」しか言葉が出ないほどの
スケジュールの短時間ハード型です。問題は継続することです。
坊主の私がここですぐあきらめたら本当の三日坊主になっちゃいます。
敵は己。身体を鍛えることにかぎらず、何事も自分自身との戦いです。
人はどうしても楽な方に流されやすい性質があります。
心は悪い方向や、楽で怠けたい方向に行ってしまいます。
よいことを実行するには、かなり強い決意が必要になります。

戦場において百万人に打つ勝つよりも、ただ一つの自己に克つ者こそ、
最上の勝利者である。 『法句経』

お釈迦さまの言葉がそのまま残されている法句経の中でも有名な一節です。
最上の勝利者は落ち着きの中にいて、言い訳や、他人のせいにしたり、
他人の非をとがめ攻撃したりはしません。真の勇者です。
心を鍛え真の勇者になるのは並大抵のことではありませんが
いくらかでも近づけるように精進していくことは誰においても必要なことです。
私も精進していきます。
腹筋プランもがんばります。



不放逸(ふほういつ)であれ

2008年05月15日 | Weblog
雨上がりの気持ちいい朝です。こんな朝は草花もうるおっていて
境内が輝いて見えます。

毎日があっという間に過ぎてゆきます。しかし、昨日何をしたのか、その前の日は
何をしたのかもすぐには思い出せないと言うことは誰にでもあると思います。
私もそうです。こんな調子ですから期限が決まっている仕事などあるともうドキドキしたりします。

もろもろの事象は過ぎ去るものである。
怠ることなく(不放逸[ふほういつ]にして)修行を完成しなさい。『大パリ二ッバーナ経』

これは以前このブログで「釈迦の遺言」として取り上げたものです。
「不放逸であれ」とは「そのときそのときに、なにをするかわかっている」ことです。
今何をすべきかをきちんと考え、その場の雰囲気に流されることなく、
きちんと行うことが心を育てるのですよ、ということです。
私に一番必要なお言葉です。何をしていたかわからない時間というものは一日の中の多くを占めているかもしれません。
流されることなく、おぼれることなく、この瞬間どうすべきか、次の瞬間どうすべきかを“気づく”ことが心を育てます。
「不放逸であれ」をいつも胸のうちに・・・今日は自分自身への言い聞かせのブログでした。



慈しみの手を

2008年05月14日 | Weblog
霧吹きで噴いたような細かい雨が降ってきました。
まだ不安定な空模様ですね。

ミャンマーの災害が未だよい方向に向かっていないなか中国での大地震が起きました。
短い期間にこのような大災害が連続して起きてしまいました。
私達は誰でも一歩先に何が起こるかはわかりません。薄氷の上を歩いているようなものです。

阪神大震災を思い出します。「これからいったいどうなっちゃうんだ」と当時は驚き、悲しかったことが思い出されます。
天災によるものは私達にはどうにも出来ませんが、救済は私達にすべてゆだねられています。
共に我が国での出来事ではありませんが、以前もブログで書きましたが
“わが身にひきくらべて”という考えかたがお釈迦様の鉄則であります。
人の苦しみや不幸も、わが身にひきくらべるならば出来る範囲での慈しみの手をさしのべるのは、
同じ人間としてしなければいけないことです。
他の国と比べても豊かな暮らしをしているのですから、いくらかでも分け与えることは出来ます。

「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」・・・黄金律(おうごんりつ)と言われ、
多くの宗教・道徳や哲学で見出される内容の倫理学的言明であります。
宗教を越え、人間同士において、生きとし生ける者において共生するうえで欠いてはいけない大切な心です。
どうか無関心という罪を作らないようにしてください。
わが身にひきくらべてください。



雨のなかで悦(よろこ)ぶ

2008年05月13日 | Weblog
やはり台風2号の影響ですね。風と雨の朝です。
昨晩から「明日の登校はカッパをきせたほうがいいかな~」
などと家族で対策を講じていました。これからしばらくはこんな天気がおおくなりますね。

こんな雨のなかでも境内の写真を撮っていますが、うまく構図がとれないと
夢中になってしまい背中が濡れていることなど気にならなくなります。
データをパソコンで出したところ結局今日はうまく撮れませんでしたが。
雨を意識した写真を撮るのに夢中なときは雨が気にならなくなります。
雨を楽しんでいると雨が苦になりません。苦の中に楽を見つけ楽しむことができた時が幸福を感じる時なんでしょう。
幸福は試練や困難の中に埋まっているのかもしれません。それを掘り出すのには自身の努力や工夫が必要です。
それは小さい子どもであっても老人であっても死ぬまで掘って進んで掘って進んでの繰り返しです。
宝探しゲームのようなものかもしれません。以前も書きましたが“あがり”までがんばって、楽しんで進むのみです。
朝から小さな宝を見つけられて雨の中で悦びを感じることが出来ました。
ブログを読んでくださる皆さんのおかげです。感謝です。

崇高(すうこう)な境地

2008年05月12日 | Weblog
ひんやりとしますがさわやかな朝です。
昨日の「母の日」はいかがでしたでしょうか。
近頃は「孫の日」というのを浸透させようという動きもあるそうですね。
商売がらみらしいですがいつも家族を思いやる気持ちがあればそれが最高ですよね。

昨日のお釈迦様のお言葉のすぐあとに次のようなお言葉が続きます。

『また全世界に対しても無量の慈しみの意を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみをおこなうべし。
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいるかぎりは、
この[慈しみの]心づかいをしっかりと保て。
この世では、この状態を崇高(すうこう)な境地と呼ぶ。』

今からおよそ2500年前にすでに世界平和をとなえ、慈しみの心こそが
最も素晴らしい境地ですよとお釈迦様はおっしゃっています。
まるで自分の家族を思いやるような慈しみの気持ちを家族以外の人にも、
見知らぬ人にも起こすことが争いのない穏やかな世界にしてくれます。
道は標されてはいますが、世界は未だにその道を教え通りに歩んではいません。
しかし私達一人一人がその道を歩み自身のため、子ども達のために実践し、
崇高な境地へ向かうことは、こんな世の中だからこそ必要なことです。
私も生涯をかけていくらかでも崇高な境地へ近づきたいと思っております。

崇高・・・けだかくて、とうとい・こと(さま)。











母の日

2008年05月11日 | Weblog
雨の日曜日。気温も低いですね。
今日は母の日。昨日は我が家の娘もプレゼントの用意を
していたみたいです。私も子どもの頃花屋さんにカーネーションを買いに
行った記憶があります。また、母親が草もちが好きだったので買いに行き、帰り道
の公園でもちをかかえたままブランコをして、家で包みを開いたら5つほどの
草もちが一体化していて“のしもち”状になってしまった失敗談はいまだに鮮明におぼえています。
お釈迦様が慈悲を言い表すのにこのような表現をされています。

あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の[慈しみの]心をおこすべし。『スッタニパータ』

慈しみの心とは、わが子に対し何の見返りを期待するわけでもなく一生懸命育てることと同じである。
その心をすべての生き物にも同じようにふりわけなさい。
とてもわかりやすい譬えです。母と子の間に慈悲はあります。
母の慈悲の心に改めて気づき、感謝の気持ちをもつことが「母に日」の意味かと思います。
どんなに歳をとっても母親というものはかけがえのない大きな存在ですね。
今日一日が「母の日」でなく、毎日がそうでなければいけないんですよね。