伸ちゃんのブログ

ひたちなか市にある、お寺の住職のブログ
毎朝の境内の一コマと坊主の一言を毎日更新中

中道(ちゅうどう)

2008年04月30日 | Weblog
今までの服装で表にでるとあつく感じる朝です。
今日は気温がグッと上がりそうですね。
11連休という友人もいますが、本人も「長すぎても
いや 仕事に戻るのが余計つらくなる」と言っていました。
お釈迦様は国の王子として贅沢なくらしを送られました。
しかし、それは本人の意思ではなく王様である父が国の王
を引き継いでもらいたいために無理にさせていたのです。
29歳で生き方に疑問を持ち、出家して非常に過酷な修行を
行います。35歳で悟りを得ます。それは、王子の時の贅沢と
修行の時の死の手前までの厳しさの両極端のとらわれ・執着を
離れ、とらわれ・執着のない心境“中道(ちゅうどう)”に達した時です。
簡単にお釈迦様のお話をしましたが、凡夫である私達の生活にも役立つ
知恵になりますよね。“極端”は日常のリズムを大きく崩します。
規則正しい生活の中にこそ心の穏やかさが訪れます。清らかな、穏やかな生活
を求めたいなら、自然と規則正しい生活になります。
自分自身や周りの人の為にも連休中乱れた生活にならないよう気をつけましょうね。


林住期、とまではいかなくても

2008年04月29日 | Weblog
朝はひんやりしますが、これから20度くらいまで
気温は上がるようですね。いい「昭和の日」になりそうです。
実は娘に「昭和の日」と言われるまでまだ「みどりの日」だと
思っていました。昔は「天皇誕生日」でしたが。
境内の庭石の陰にあるすずらんが咲き始めました。とてもかわいいです。
東北や北海道の春を思わせる花です。牧草地によく群生しているそうです。
岩手の実家の裏を行くと牧場があります。帰省した際は必ずそちらまで足をのばします。
峠にある牧場ですのでイメージ的にはハイジがおじいさんと暮らしていた
ような感じのところです。圧倒されるほどの空と風、大地というより山を存分に体感できます。
日常が吹っ飛んでいくような、私にとって大切な場所です。
たまに自然に抱かれることはとっても必要です。
「林住期(りんじゅうき)」・・出家して林に住み、独りになって旅に出る・・という
古代インドにおいて自分自身を見つめ、修行するとされる期間をいいます。
お釈迦様も「森は楽し。世人の楽しまざる所において・・」という句を残されています。
自然を実感することはいつの間にか疲れている心や身体にとっていい薬になります。
レジャーというより自然に抱かれに何にもない野や山に行くということもいいですよ。GWにおすすめします。


供養

2008年04月28日 | Weblog
とても気持ちのいい朝です。だんだん日差しも強くなってきた
感じがします。牡丹が満開になりました。はちきれそうなつぼみ
から、とてもおおきな花が開いています。
昨日は午後から寺のイベントでいつもお世話になっている
近所のお父さん・お母さん・子ども達に来てもらいにぎやかに
企画会議を行いました。そんな時は子ども達が境内をかけまわり
普段イメージする寺独特の静けさとは違う“子どもパワー”でいっぱいになります。
「ありがたいな~」、としみじみ思います。寺全体がよろこびにあふれている感じがします。
“供養”という言葉は寺ではひんぱんに口にしますが、“よろこび・よろこんでもらう”ということだと思います。
自分や周りにとってうれしいということは、とてもすばらしい力・波動をもっています。
その力・波動はさらにひろがりを持ちます。寺においては最高の供養です。
お父さんお母さん、素晴らしい、うれしくなるような企画ありがとうございます。子ども達、素晴らしいパワーありがとう!
あらゆるものがよろこびにつつまれますように。生きとし生けるものが幸せでありますように。

永遠の真理

2008年04月27日 | Weblog
曇り空のちょと降り出しそうな朝です。
昨日は聖火リレーが長野で行われ表と裏の部分がニュースでながされていましたね。
ダライ・ラマ法王が強く説いている非暴力と逆の行為が画面ではさんざん映し出されていました。
暴力には言葉の暴力もあります。暴力による対立は決して解決にはつながりません。
お釈迦様は『実にこの世においては、怨(うら)みに報(むく)いるに怨み似てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。』と説いています。普段の生活でもそうです。怒りを怒りで返していい結果につながるでしょうか。逆に事態は悪くなるに決まっています。互いに心落ち着かせて始めて解決につながります。家庭でも学校でも職場でもどこでもそうです。まさしく「これは永遠の真理である」のです。
今の社会は怨み・憎悪・怒りであふれています。大人同士でもやっていることは結局感情的でとても幼稚に見えます。まず自分達から「この永遠の真理」を理解し、実践していきましょう。実行はとても難しいかもしれませんが、お釈迦様のこのお言葉をいつも心に留めておきたいです。きっと変わっていくことが出来ます。

成長し続けなければいけないもの

2008年04月26日 | Weblog
境内がどんどん新緑で覆われています。みどりいろの朝という感じです。
植物は成長することにすべてをかけています。
無駄なことをせずただ成長し花を咲かせ実をつけ
種をつくり、そして種を残し、土にかえります。
人の場合はすべての人が子をつくり、家庭をもち
そしてこの世を去る、というパターンにしたがうわけではありません。
様々な生き方があるのが当然です。しかし、誰もがその生涯の中で
まるで植物が成長だけにすべてかけたように成長し続けなければ
いけない大切なものを持っています。それは“心”です。
死ぬまで、その最後の瞬間まで大切に成長させていかなければならないのです。
しかし、そのことを知る人はわずかです。社会にいればいろんなことに振り回され
心を逆に傷つけあったり、閉ざしたり、ということが多くあります。
財産、家族、名誉、権力など、社会的には大切なものでも死ぬ時は置いていかなければなりません。
持っていけるのは“心”だけです。しかも成長させた“清らかな心”だけが役立つのです。
生活のなかでいろんなことがあります。でも、“心”を大切にしてください。壊さないでください。
それが、仏の教えなのです。

壊れた傘に感謝

2008年04月25日 | Weblog
ひんやりとした空気の朝、途中からまた雨が降り出しました。
寺は年中無休。お参りする方においてはその時の心の
動きに従い寺で手を合わせたいという気持ちがあるからです。
今朝も6時前にお参りの方が来ました。大変な試練を受けながらも
支えてくれる周りの人々に感謝していることを報告しに来ていました。
度重なる試練をうけている方ですがいつも感謝を忘れず、そしてその試練を
超えてきた方です。私に出来ることはただお話を聞いてあげることだけです。
帰る頃には雨脚もつよくなってきました。傘を持たずにお参りに来られたので
傘をわたしました。たいへん遠慮されていましたが、先日の強風で骨が壊れていて
一度ひらくと閉じるのが面倒な、返す必要のないものでしたので相手の方も笑って
受け取ってくださいました。壊れた傘のおかげで相手に負担を感じさせないお手伝いができました。
見返りを求めずあたえること、させてもらうこと、を佛教では布施(ふせ)といいます。
そこには相手に負担の気持ちを与えてはいけないという意味も含まれています。
与えるほうも受け取るほうも笑みをうかべていれば最高に幸せです。
壊れた傘に感謝、受け取っていただき感謝です。

求不得苦(ぐふとくく)

2008年04月24日 | Weblog
今にも泣き出しそうな空模様の朝です。
昨日の牡丹が開きだそうとしてます。
人間なら今から雨が降り出しそうだから
今日咲くのはやめよっと、という感じになりますよね。
わかる範囲内でそう考えるのは当然のことですが、
生きていく事は先がみえず、わからない部分がほとんどです。
「求不得苦(ぐふとくく)・・何でも願い求める時、得られない苦しみ」
思うように行かない苦しみの事を佛教では求不得苦といいます。
「四苦八苦・・人生の苦悩の原因とされる八つの苦しみ」の中の一つです。
予想した人生を歩んでいける人はいません。
降り出しそうな空の下で花を開こうとしている牡丹と同じかもしれません。
怖がって閉じたままでは何も始まりません。雨にうたれた花も美しく見えます。
どんな状況にでも懸命に生きること、そうやって生きていくことが素晴らしい生き方ですよね。
雨にうたれていても咲いている牡丹の花をしっかり見たいなと思います。



照らされて輝く

2008年04月23日 | Weblog
今朝は穏やかな感じです。この2~3日は全国的には
暖かいのに水戸地方だけ気温が低いですね。夕方になると
更に冷え込みますよね。皆さん体調はいかがでしょう?
写真はもうはちきれそうな牡丹(ぼたん)のつぼみです。
たしかに大きな花ですからつぼみの中はぎゅうぎゅうなんでしょう。
近くに高さ1mほどの野外灯があるので、夜になると牡丹の花が
赤く照らし出されてとてもきれいです。社会においても自力で輝くことは
出来ません。人と人とのつながりがあってはじめて照らし出され
輝くことが出来ます。“自分だけで”という驕り(おごり)を佛教では
増上慢(ぞうじょうまん)といいます。決して悟ることは出来ない人です。
人間誰しも増上慢はもっています。その思いが人間関係を悪くします。
身近な人であればなおさら、家族においては特に出やすいかもしれません。
増上慢は闇、明るくなれる所は人の中。いつもこころをひらいて周りと共に輝いていたいですね。




ささやかだけれどかけがえのない・・

2008年04月22日 | Weblog
ちょっと風のある朝です。昨日は予想以上に寒かったですが
今日もそんな感じになりそうですね。
寺の駐車場のボタン桜は今が満開です。以前は境内にも何本か
桜はありましたが、今はボタン桜だけになりました。
岩手生まれの私にとってはゴールデンウィークの頃に桜というのが
あたりまえの感覚なんですね。桜城小学校という、今思うとすてきな
名前の学校にも通っていましたが、なにより桜が満開の“高松の池”という
地元の名所をめずらしく母と散歩したのが心に残る私にとっての“桜”です。
誰しも桜にまつわる思い出というのがありますよね。桜はそういう意味で
日本人に深くしみこんでいる特別なものかもしれません。
子ども達にも印象に残る桜との思い出を作ってあげたいなと思います。
“あまりにも当たり前すぎて見過ごし忘れてしまった、人生にとってささやかだけれども、
かけがいのない大切な事や大切な時間”・・以前何かの雑誌で読んで気に入って書きとめたものですが、
日常こそが人生そのものです。
きっと生涯においての大切な思い出とは日常のなかの、ほんのしたことかもしれないのですから。

釈迦の遺言

2008年04月21日 | Weblog
ちょっと雲がかかっていますが穏やかな朝です。
週末は寺は法事がたてこみ、月曜日はちょっとお疲れの状態になります。
月曜定休としたいところですが、さすがにお寺に定休日の看板を
さげるのは無理です。年中無休の歴史では、日本のパイオニアかもしれませんね(?)。
「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」
・・これはお釈迦様の遺言とされているお言葉です。
35歳で悟りを得てから80歳の生涯を終えるまでの45年間ガンジス川中流域を布教して回りました。
最後の瞬間まで教えを説いていました。
“忙しい”と感じるのも一つのとらわれ、さすがに疲労した身体はいたわってやらなければいけませんが、
怠ること多き私には“怠ることなく”の一言がどれほどストッパーとして役に立っていることか。
80歳まで怠ることなく人々の為にインドの気候の中を徒歩で回ったお釈迦様を思うと
“怠ることなく”の重さをずしりと感じるのであります。