どうしてそんなことがわかるの

どうしてそんなことがわかるの

ママは不安な時に哲を頼ってくれるのだ

2016-06-23 14:46:02 | 生活

哲がオースティンで東洋医学を学び始めてからというもの、以前のようには西洋医学にお世話にならなくなった。もうかれこれ10年近くはいわゆる「風邪薬」を飲んでいない。だから歯医者に行った後など、痛み止めや抗生物質をやむなく飲まなくてならない時、突然入って来た「異物質」に身体がびっくりし、そして私は自肌膚保養分の身体が自分の身体でないように感じ戸惑ってしまう。哲が無事に大学を卒業し、東洋医学医として活躍するようになってからは尚さらで、私のプライマリードクター(アメリカでは何かあった時、最初にまずプライマリードクターに相談し、そしてその先生が専門医を紹介するというシステム)は完全に哲となった。そしてプライマリードクター哲は、専門医ドクター哲に私を紹介してくれる。

先日体調を崩していたママからメールがあった。
「哲宏さんのメールが本当に素晴らしいお医者さんに診察して頂いるように感じました。NHKの金曜日夜10時から放映している番組の「ドクターG」とゆう番組が私は大好きなのですが(遅い時間なので観れないので再放送で見ます)哲宏さんのような先生が病気を探して行く番組なのですが哲宏さんはそのようで頼もしいです。なんだかとりとめもないメールですみませんが本当にいろいろ有難うございました。」

誰に誉められたら一番嬉しいか、それは「両親」だ。その親に「自分の夫」を誉め認めてもらえるというのはなんて嬉しいことだろう。
そしてママも頼るドクターUに、私も相談しなくてはならないことが身に起きた。

れは夏休みの旅行前のことだった。急に、いや、もしかしたらじわじわとだったのかもしれないが、右耳が痛いことに気づいたのだ。すぐに治るだろうと思いながら旅行に行ったが、旅行中も痛みは収まらず、大好きな場所で心は躍るはずなのに、右耳に重しを付けられているような気分で過ごしていた。そして、ふとすると「痛み」が「楽しさ」に勝ってしまい、「折角の夏休みなんだから楽しまなくちゃ!」と耳の痛みを忘れる努力をしながら楽しんでいたのだった。

もちろん哲は漢方を処方してくれた。そして様子を見ては飲む錠剤を変えてくれた。私はいつものように言われるがままに黒い粒や苦い粒を口に放り込む。そして一週間。まだ痛い。痛み皮膚管家は子供の時によくくなった中耳炎のような痛みだ。あぁ、懐かしい。痛いながらも私はこの痛みを懐かしみ、そしてドクターUに内緒で武藤先生を恋しく思った。

耳が痛い、喉が痛いと言うと、必ず武藤耳鼻科に足を運んだ。家から5分ほどの場所、駅の方に向かって左に入る小道を行くと武藤耳鼻科はあり、白い2階建ての建物の2階が診療所になっていた。なぜかいつ行っても混んでいて、ドアを開けると入口にはたくさんの靴が散在している。まるで神経衰弱のカードのようで、自分の靴の組み合わせを探すのが大変なくらい。そんなあっちを向いたりこっちを向いたりしている靴たちの仲間に自分の靴も押し入れて、そして私はボロボロの子供用のスリッパをはく。正面には小さな窓があり、そこにおばさんが座っている。ママから「落とさないようにね!」と注意された握りしめていた保険証をそのおばさんに渡し、そして窓の下に置いてあるノートに名前を書く。初めて一人で来た時は、これらの一連の作業だけでも「大人になった」気がしていた。そしてその一連の「大人な作業」を終えると、部屋にコの字に並べられている椅子に腰かけ待つのだが、靴の数からも想像抗老化產品出来るように、いつも待ち時間が長いのだ。

高校時代の友人たちとは

2016-06-10 15:52:58 | 生活


久しくご無沙汰している。
ドキドキしながら早速、FBを覗いてみると…
知っている人がほとんどいないという衝撃の事実。
大丈夫か?私…
自分の記憶力に不安を感じながらも、
450人くらいいる同期生のうち、グループに加わっている30人ほどが分からなくても、仕方がないんでないの と自分を励ます。

となると、距離の取り方が非常に難しくなってくる。
「初めまして」じゃないはずなんだけど親しいわけでもなく、
もし記憶の中にうっすらとでもお互いの存在を認識していたとしても、その程度のつながりで盛り上がれる共通の話題ってなにかしら?
同窓生というだけで無理につながる必要もない間柄であるからして、ほんと微妙なものである。
知らん顔してしまえばそれまでのSNSという場で、
それでも声がかかればつい覗きに行ってしまうのは
やはり望郷の念にも似た懐かしさ。
450人の同期生がいれば、それこそ450通りの生き方がある。
450もの人生が一つの場所に結集し入り混じっていた3年間。
そんなふうに考えれば、それは奇跡のようにも感じられる。
これまで自分は特別な愛校心など持ち合わせていないと思っていたが、こうして月日がたってみると、同じ時を共に過ごした仲間が、それだけでなにか特別な絆で結ばれた存在のようにも思えてくるから不思議だ。

場所を変えて、数人の女子メンバーだけでチャットした。
だいたい、女子は結婚して名前が変わっている人も多いんだし、
誰が誰だか最初は分からなくても、まぁ、当たり前。
第一、私のことだって、だれ?って思われているに決まっている。
それぞれが自己紹介していくうちに少しずつ記憶がつながって、
だんだん当時のことを思い出してくる。
そして、みんなが口を揃えて「男子がまるで分からない」と言うのを見て、
ちょっと安心する私。
当時のうちの学校は、女子生徒は全体の3割くらいだったから、
女子はわりと覚えているんだけれど。
仲良くしていたあの子やこの子もグループに加わればいいのにと思うものの、
実名登録が基本のFBであってもそう簡単に見つからない。
ま、それがSNS。
すべての人がアカウントを持っているとは限らないわけだし。

数人の友人の名前を検索にかけながら、ある友人のことを想う。
本当なら真っ先に検索を試みるはずの友。
彼女はとても明るく朗らかで、やさしい女の子だった。
人のよさがにじみ出た彼女の笑顔をよく覚えている。
高校を卒業してしばらくは連絡を取り合い、何度かテニスをしたりした。
そのうちお互い忙しくなって距離ができてしまったが、
年に一度、年賀状のやりとりだけは欠かさずに続けていたのだった。
すっかりご無沙汰していても、そのうち同窓会でも開かれれば
また会うこともできるんだろう。
そんなふうに思っていた。
ところが、昨年末に届いた葉書は、彼女との再会がかなわないものとなったことを私に告げた。
彼女のご主人名義で出されたその葉書には、
妻が47歳で永眠したと記されていたのだ。

そんなことがあるなんて!
いや、そんなこともあるのが現実なのだ。
“一期一会”という言葉が心に浮かんだ。
また会えるなんて安易に思っていたら、あとに悔いを残すこともある。

人生に悔いを残したくない なんていうことを、
私も考える年齢になったのだとしみじみ思いながら、
5月のさわやかな風に吹かれて空を見上げている。