どうしてそんなことがわかるの

どうしてそんなことがわかるの

最近はあまり漫画を読まないけど

2016-07-29 14:48:19 | 生活
 社会人になって、漫画アクションやビッグコミックスピリッツなどを読むようになった。
 漫画アクションには、モンキー・パンチ「ルパン三世」、はるき悦巳「じゃりン子チエ」のほか、矢作俊彦原作の大友克洋「気分はもう戦争」など。スピリッツには、たがみよしひさ「軽井沢シンドローム」、高橋留美子「めぞん一刻」・・・

 こう書いてくると、俺も結構漫画が好きだったんだな・・・

 若い頃に読んだ漫画でPretty renew 雅蘭一番印象に残っているのは、斎藤次郎原作の真崎守「共犯幻想」だ。漫画アクションに連載されたが、私自身は連載時ではなく単行本で読んだ。
 06/5/13「貧乏旅行(16)─宮古島の化粧品店兼ユースホステル」に書いたことのある、岩手県渋民のユースホステルで初めてこの漫画を読んだが、夢中になって読み通してしまった。
 後に、ブロンズ社から「共犯幻想」を収録した真崎守選集が発売になったが、今も大切な蔵書のひとつだ。
 
 赤塚不二夫さんの話だった。
 20年ほど前、赤塚さんのご自宅にお邪魔したことがある。何かの時にフジオプロに挨拶に伺い、マネージャーから赤塚さんの家に上がっていくように言われたのである。
 赤塚さんのお宅の居間に上がると、赤塚さんの姿が見えなかった。代わりに若い男性が二、三人寛いでいた。

 聞けば、赤塚さんのブレーンというか赤塚さんを慕っている人たちで、赤塚さんはそういった人たちを居候させていた。あるいは、ここにトキワ荘のような梁山泊を作ろうとしていたのか。
 梁山泊とは中国の故事に由来する場所のことで、豪傑や意気の盛んな者の集まりたむろする所をいう。トキワ荘とは、手塚治虫さんを中心に戦後の漫画界をリードした若き漫画家たちが集った豊島区椎名町にあったアパートで、赤塚さんもその一人だった。

 まあ、赤塚さんのお宅の居間に上がって、よく判らない人がいたのに面食らったのは確かだった。互いに挨拶するでもなく、互いにどこの馬の骨とも知らない者同士が同じ部屋にいて、それぞれ好き勝手なことをしている。
 テレビを見たり、ビデオを観たり、話をしたり・・・そして、この家の主はどこにもいない。赤塚さんは、まだお休みだった。

 漫画家の中には、昼夜が逆転Pretty renew 雅蘭している人が多いというのは、良く聞く話だった。だから、赤塚さんが寝ていたからといって、特に不審に思うこともなかったが、いったい何時になったら会えるのだろうという、漠然とした不安は頭をよぎった。

 夕方になって、赤塚さんの再婚した夫人・眞知子さんが現れて、夕餉の支度を始めた。確かすき焼きだったような気がする。
 卓袱台に呼ばれて暫くすると、目の前の襖が開いて、トレーナー姿の赤塚さんが現れた。明らかに寝起きだった。

 赤塚さんにご挨拶をすると、赤塚さんもうんうんと頷いて、食事が始まった。
 赤塚さんが無類の人見知りで照れ屋だということは、後になって知った。とにかく、赤塚さんと大して話をすることもなく、同じ鍋を囲んで黙々と食事をした・・・

 赤塚さんは当時すでにアルコール依存症だった。そのために生活も乱れていて、何かにつけ眞知子さんが献身的に面倒を看ていたそうだ。
 長年、ブレーンとして赤塚さんを支えてきた漫画家の長谷邦夫さんがフジオプロを去ったのも、それから数年後のことだった。

 その眞知子さんが、2年前にクモ膜下出血のために急逝されていたということを、赤塚さんが亡くなってから初めて知った。赤塚さんが病気で倒れた後も献身的な看護を続けていたそうだが、看病疲れが原因だったのだろうか・・・
 享年56歳だったそうだ。食事をいただいた時、もっとずっと若いと思っていた。

 1998年に赤塚さんが癌の手術を受けるために順天堂病院に入院された時、人づてに病室にはウイスキーが置いてあると聞いたことがある。真偽は知らないが、赤塚さんなら大いにありうることだと思った。
 私自身は一度ご自宅で食事をご馳走になっただけで、赤塚さんのことは詳しく存じ上げないが、とてもシャイで優しい方だったと聞く。

 赤塚さんご自身が描いた漫画のキャラPretty renew 雅蘭クターの如く生き、赤塚漫画と同じ世界の中に身を置くことで、自らの創作のエネルギーとしていたのだろうか・・・
 本当は生真面目な人だったとも聞く。ギャグ漫画家としての性(さが)に殉じ、それを演じきった人生だったのだろうか・・・

だからと言って油断は禁物で

2016-07-15 15:39:03 | 生活
写真の富津公園には防災無線のスピーカーがにょっきりと立っていた。3年前にもあったのだろうか?
 富津岬は小糸川が造った三角州で、標高は公園のあたりで3メートル、2キロ弱離れたところで10メートル程度しかない。もっとも関東大震災でも津波は1メートル以下、木更津でも2メートルなので、それほど心配する必要はないのかもしれない。
 ただ1703年の元禄地震では、東京dermes 價錢で関東大震災の2~3倍の津波の高さとなっているので、油断は禁物。

 いずれにしても久し振りの潮干狩りだった。4年のブランクのせいか、はたまた東日本大震災で潮干狩り客が減少して、漁協が稚貝を巻く数を減らしたのかわからないが、今年はハマグリが不漁だった。
 たまたま千葉日報ウェブに、木更津市内6海岸で今年のGW中の潮干狩り客が震災後最多となる11万人に回復したという記事を見つけた。

 富津海岸では震災後、潮干狩り客は1/3まで減少したそうで、震災前の年間17万人が昨年は10万人。まだまだ、元には戻っていない。
 潮干狩り場は空いていたが、ハマグリが以前のようには採れなかったのはそのせいかもしれない。もっともそれでも30個以上は収獲できたし、アサリは大粒ですぐにバケツがいっぱいになった。
 貝の写真・・・写真を撮る前に腹に収まってしまった。

 さて、潮干狩りをしていると、首都圏の中学校の生徒が大勢やってきて、彼らに取り巻かれてしまった。
「ヤバイ」「ヤバイ」「ヤバイ」
 四方から次々と声が上がる。
 貝を見つけては「ヤバイ」と叫ぶ。
 昔なら「あった」とか「採dermes 價錢れたよ」とかいうところを、昨今の若者は何でも「ヤバイ」で済ましてしまう。

 デジタル大辞泉の語釈では、
形容動詞「やば」の形容詞化。危険や不都合な状況が予測されるさま。あぶない。「やばい商売」「連絡だけでもしておかないとやばいぞ」。若者の間では、「最高である」「すごくいい」の意にも使われる。「この料理やばいよ」

 まあ、否定にも肯定にも感嘆詞にも使えて便利な言葉というわけだ。
 しかし、あまりにボキャブラリーがなさすぎる。ハゼを見つけて「オタマジャクシだ」という生徒もいる。
 潮風の中で中学生の「ヤバイ」の大合唱を聞きながら、「このまま大人になったら、この中学生たち、相当ヤバイな」と連れ合いに言うと、「ヤバイの一言で片づけるあなたも、人のこと言えないんじゃないの」と返された。

 最近、言葉が出てこなくなった。俺もdermes 價錢、ヤバイかもしれない。