十代の頃、型通り太宰治にかぶれた私は、二十歳くらいまでに習作を除く全作品を読破して、それからは思い出したように再読の手を伸ばしてきた。かつての麻疹を恥じるように一度は遠ざかっていたが、作品として見るとき、やはりそれは未だに読むに耐える、いや読むべき作品群なのだった。
本書は『魚服記』を筆頭に十編、昭和八年から十六年の短編を井伏鱒二が編んだものである。中期の名短編を選んだ、という体裁だ。
この頃の太宰はよく言われるように、井伏の媒酌で再婚してから家庭の人、市井人としての安定を祈願し、それが作品にも現れて、きな臭い世相とは裏腹に、良質の作品を発表し続けてていた。作品を編み、解説を書いているのが井伏鱒二というのも興味深い。
今回の再読で、特に印象的だったものを取り上げたい。
『魚服記』
津軽の山奥(ぼんじゅ山というから浪岡か五所川原あたりだろう)を舞台にした不可思議な、童話みたいな話。それは表向きで、よくよく読むと、童話どころではない伏線がほの見えてくる。
炭焼の娘に芽生える自我と性の衝動。夢の中の出来事みたいに描かれる終盤は、捉えようのなさにぼかされて、読者の想像しだいで解釈も変わりそうだが、近親相姦をも匂わせている。飢饉で子を食う陰惨な時代を経てきた津軽や南部の地方における寓話。そういう物語を聞いて育ったであろう太宰治ゆえの『魚服記』なのかもしれない。
『富嶽百景』
太宰治の美意識というか価値観を知ることができる佳作だろうと思う。甲府での見合いや結婚の経緯が、富士山を背景に自然に語られていく。
その傍らでは宿にこもっての仕事や、地元青年らとの歓談、井伏鱒二との付き合いも散りばめられている。
しかし読んで不思議なのは、読者に視点の位置をいささかも強制しないことだ。これは焦点がつかめないのとは訳が違う。ここに思い至ったとき、私は「あっ」と思った。
ありきたりな、万人受けする、いかにもな、出来過ぎた、そういうものを恥じたり嫌がったりする心情を作中、幾度もこぼすわけだが、逆に最後に、カメラに収めながら『富士山、さようなら、お世話になりました』と感謝する。
この作中で扱われた富士、それは当時の太宰が、恐れ、恥じ、あるいは見下し、いまさらそんなと煙たがり、しかし実は希求もしていた、家庭の幸福(いいかえれば市井一般の価値観)を比喩的に表現したものだったような気がする。
その周縁を語るのがこの作品のスタンスであって、定点観測すべき場所など最初から用意していなかったのだろう。
『女生徒』
太宰の描く独白、中でも女性のそれには定評がある。これ以外だと、本書にも収録されている『きりぎりす』、代表格としては『斜陽』等。
見事だと思う。しかし私は個人的に感情移入はできない。あまりに女性的な文体に、惑わされ、妙な乖離の感覚にとらわれる。女性特有の感情の起伏や、とりとめのない言動が、実際の女性より女性らしく描かれていて、しかしふと我に返れば書き手は男性であると気づいて妙な気分になる。
歌舞伎とか大衆芸能に〈萌え〉るのは、その意外性ゆえなのかもしれないし、その美的感覚は日本人特有のものなのだろうが、私は微妙な感想を持ってしまう。
『きりぎりす』の健気な、精一杯のプロテストには今でも胸うたれる。内容しだいでこういう例外もあるのだが(『きりぎりす』は若いときから好きな短編だった)。
『駆け込み訴え』
やはり名作。筆が冴えるとはこういう文章を見て思い出す言葉だ(奥さんに口達筆記させたという逸話があり、筆でなく言葉が冴えたわけだが)。
無駄がない。音楽のように流れていく文体。二回しか改行していないのに、それに気づく間も与えない。
ユダの愛憎に揺れる矛盾した言動、慌てふためく様子、太宰治の才気が遺憾なく発揮された名短編だと断言していいと思う。
ただ今回、違う観点からも読んだ。ここで非難の的になりながら、それでも愛され、労られているキリスト。そのキリストの描かれ方を見ていると、太宰治の死に至った筋道がわかりそうな気がした。“文学的自殺”と称されるその死は、太宰治の中に在るキリストとユダが演じた自裁だったのかもしれない。
『走れメロス』
教科書で最初に目にする人が多いかもしれない。しかしこの作品を読んで太宰の第一印象としてしまうのは、どうかと思う。出口を入り口と誤解するようなものである。
自殺未遂、心中、麻薬中毒……最底辺から再出発し、世帯を持ち、“息子の文学”が“父親の文学”へと熟成されていく過渡期である(良くも悪くも最後まで彼の文学は前者であったわけだが)。家庭人として家を守ろうと決心したであろう太宰治の、理想への賛歌、人間を信じたいという切実な希求がこの作品には滲んでいる。
太宰はメロスではなく、ディオニソスにこそ愛着を持っていただろう。叶わぬ正義かもしれぬが、それを古典に託して吐露する。その意気に私は感銘を受けた。
かつては教科書にうってつけな倫理的・道徳的小説だなと思っていたが、それは短絡的な印象でしかなかった。今回私は予期せぬことに、刑場の場面で目頭を熱くした。太宰治の半生と、それまでの作品群を知った上で、かつ読む側の私が、三十代となっているいま、この作品の持つ意味はだいぶ違ってくるようだ。
