よい子の読書感想文 

読書感想文367

『感傷と反省』(谷川徹三 岩波書店)

『山』以下六編の評論が収められている。
 著者の名はこの本を手にするまで知らなかった(調べて初めて谷川俊太郎のお父上と知った)。デパートの古本市でやけに色褪せた箱入りの本書を見つけたとき、題名に惹かれて手にとった。
 奥付にメモ書きで『13.1.15 於・東京』とある。当然、平成ではなかろう。文中にもたくさんのアンダーライン。普通は購買意欲を削ぐこれらの要素が、逆に私の興味を引いた。
 日本が破滅へ向かいつつある時代、どんな人が、どのようにこれを紐解き、辿って、読んで、何を感じたのだろうかと。
 初版は大正十四年だが、本書は十刷を重ねた昭和十二年の発行。メモした人は、インクのにおいも真新しい新刊を手にしていたことになる。
 さて、それぞれの寸感を。

『山』
 理屈っぽくて衒学的な雰囲気は否定できないが、洋の東西にある山岳を美的感覚によって比較分析する筆致は、みずみずしさに支えられて読むのを苦痛には感じなかった。
 富士山(文中『不二』)を美しく感ずる日本人とその文化の特質を、主として絵画における美意識を拠り所にして語る。私が衒学的、されどみずみずしいと感ずるのは、これを書いた著者の沸き立つような感性が行間に滲むからだ。大正末期、ようやく日本は列強の末席を占め、急進的な欧化から脱したころだろうか。そういった時代背景にあって、俄かに登山も流行しだしたときに、著者はそれこそ前人未到の『山』における比較文化を試みたのであったろう。
 いま新たな発見をもたらす内容とも見えないが、こうした斜め読みの中に感銘を得た。また本書が刷を重ねて、きな臭い時代にも読まれたのにも、至る所に伏線をみつけ得た。例えば以下のごとき表現。
〈日本の民族的気質の特色として人々の挙げる単純、温雅、淡泊、潔癖、勇気、等々は不二の形のうちに、その天を突く凛乎たる頂と、端正なる輪郭と、四時の白雪と、悠揚たる裾野の傾斜とのうちにあきらかに看取される。〉
 著者がいわゆる日本浪漫派に汲みする思想の持ち主とは思えないが、1930年代末においてはそういう読まれ方をされてしまったと考えても間違いではあるまい。

『憂鬱の浄化』
 冒頭で箴言のような一文、《反省は生命の自然の流れの中断と遡上である。》
 そして反省は憂鬱を孕み、憂鬱は反省を孕むといい、当初、憂鬱の効用(?)を述べる。学問をする、哲学をするとは、まさに“憂鬱する”ことであろう。病的に自らを蝕むような深度に陥らない限りにおいて、私も憂鬱が嫌いではない。
 しかし翻って著者は憂鬱は退廃にも通ずるとして、題名にいう“憂鬱の浄化”を論じる。学術的というより、清々しいような倫理観がこう述べられている。
《私は憂鬱の渋面を恥じねばならぬ。私が憂鬱の渋面を恥じぬ限り私は真によく生きようとする願いをもたぬものといわねばならぬ。》
《憂鬱の沈黙が時に呪いであるにひきかえて孤独の沈黙は祈りであり、憂鬱の言葉がしばしば人を傷つける皮肉と嘲弄となるに反して孤独の言葉は常につつましやかな魂との対語である。》
《憂鬱は孤独に於て浄化される。》
 ここにいう孤独とは著者流の解釈に従えば退廃の対義語であって“魂の中心を常に自己のうちに把持すること”という。実存主義的な香りもしていて、なんだか懐かしい。
 ちなみに文中、或人がかつて語ったという言葉が引用されている。
《他人によって傷つけられるのは自分のエゴイズムのみであり、自分の本質は自分自身によってより傷つけられない。》
 名言である。自分の本質とは何か? という突っ込みどころはあるが、まさしく反省の契機として私はこの言葉は忘れないようにしようと思った。

『雨の霊魂』
 若き日の日記を、いくつか引用し、それに応える形で現在の思惟が語られる。若い人を対象に書かれたのかどうかわからないが、その真摯な自己対話は、平易でアカデミズム臭に侵されず、自嘲や皮肉も交えず、清新でさえある。
 雨や自然に関する詩篇。雨が霊魂となって降り注ぐ夢と、それに対する友人等の感想。会話形式で展開するAとBの対話(心と生活の二つの傾向を幼稚にそのまま対話にしたもの、と著者は評している)。
 後半は若き日の自己対話を受けての思索が展開される。二つの傾向がここで咀嚼されていく。
《世界の大きさに全く眼を閉じて自分の住む一隅に豚の様に安住するのは現実主義の汚辱である。自己と世界に対して鋭い眼を有しながら、またそれ故に、事象の分析と解剖とのみを事として前方へ一歩をも踏み出さないのは現実主義の危険である。それに対して、「あるべき」もののために「ある」ところのものを忘れ、大空の為に大地を忘れるのは理想主義の不聡明であり、風車を妖怪となして突進し羊群を悪魔となして切り込むのは理想主義の滑稽である。》
 長くなったが後半部分の冒頭を引用した。潔い断言と、格調ある文体が魅力的だ。また、こういったストレートな論調があり得たというのは、日本が未だ揺籃の時代にあったためなのか、著者特有の素直さ故なのかわからないが、読んで爽やかである。

『孤独』
 孤独の種類を、隠者の、知識人の、反逆者のと三様に分け、軽く解説した後に自らに関係する第二の孤独を追究する(なお著者は“知識人の孤独”とは書いていない。私の勝手な翻案である)。
 この場合の孤独は、天才(著者はベートーベンやニーチェを挙げる)にとっては『価値の創造』であり『魂の本然のゾルレン』であるという。おお、これを自らにも適用するのか、さすが“学歴貴族”と思ったら、著者はつつましく身を顧みることを忘れない。
《しかし我々は自己の価値をその様に高く値づけ得ないから、自分が自分に忠実であることに対してもある反省と謙遜をもたねばならないであろう》
 確かに、孤独を誇ることは衒学的な自己顕示欲に似ているかもしれない。特段、難しいことや真新しい説を紹介されるわけでもないが、はたと胸に手を当てることの多い本である。
 なおこの章にはカントのいう道徳律が底流しているように見えた。溌剌たる哲学青年の宣言をみるようで楽しい。

『夜』
 昼と夜についての形而上学的思惟が延々と続いて退屈しているところに、いきなり目の覚めるような話の飛躍……
〈感傷はしばしば甘くおろかである、しかしその甘くおろかなることはしばしば辛く怜悧なることより深い。〉
〈感傷の棲家が常に胸にあるところに、その真実に於いて、感傷の愚かさはかえってかの手軽な現実主義と頭の怜悧よりより深いものを有する。〉
 ようはこうした喩え話に夜と昼を比較してこねくりまわしていたわけである。著者は続いてこう書いている。
〈静は動より深い。それは一般に現実に対する可能、顕在に対する潜在でもある。──この意味に於いて人格は可能であり潜在であり「静」であり根源の力である。〉
 面白い。形而上学的なものが人間中心主義の理屈として遠景に追いやられて、現在こうした主張を見るには過去のものを紐解くしかないが、といってこれらがわれわれにとって乗り越えられ解決されたものとは言い難いのだ。
 しかしながら、著者は暗に社会主義を非難し、こんな書き方をする。〈野心と権力欲とに充満せる社会主義者〉……労働運動が次第に盛んになり、無産政党が勃興し、アカデミズム周辺にも同調者が増え、著者はその“流行”めいた雰囲気に嫌気がしていたのだろうか。
 その後のパージを思えば、あたかも三島由紀夫が孤高の憂国右翼を気取っていたのを見るみたいに滑稽ではあるのだが、本書が版を重ね得たひとつの要因でもあるだろう。

『古典的と浪漫的』
 高校生や大学生が、覚えたての横文字や学術用語を使いたがるみたいに、この評論は外国作家と用語の羅列に終始する。西洋文化史や比較文化などに予備知識があれば読むに耐えるのかもしれないが、私にはいささか衒学的なハイティーンの作文みたいに見えてしまった。
 それは著者のせいでなく、大正の日本が、まさに青年のような時期に在ったからだろうと思う。
 しかし、昭和13年にこの本を手にしていた人も、どうやら退屈したらしい。めっきりアンダーラインや書き込みが減り、後半はゼロだった。

 こんな想像をしても詮無きことではあるが、アンダーライン等を見る限り、70数年前の持ち主は、悩み、不安がりながら、その悩みを、或いは感傷を力に変えていこうとしていたように思える。おそらく高等学校や師範学校の学生だろう。
 この本は、亡くなって数年して遺品を処分し、古本屋にまぎれていたものだったろうか。




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