小島信夫に続いて、読んでみた。無論、“第三の新人”つながりである。
彼らがどういった時代性の中で、いかなる問題に直面していたのか。就中、その世代を取り巻いた政治性に興味があった。学徒出陣のジェネレーションが、戦後において自由な文筆をものするとき、何を語るのか。やや残酷な興味、いいかえれば過剰な期待が私にあった。
そういった私の規定性が、作品の読み方を狭くしたきらいがあるようだ。表紙の解説から、短絡的に学徒兵による闘いの物語を想定していた。ところが語り手(著者本人らしい)は入営4日目にして喘息の診断で帰郷となる。これは本作におけるエピソードのひとつに過ぎないのだが、思い込みが外れて肩透かしを食らってしまったようで、不覚にも集中力を失ってしまった。
著者は若き日、『トニオ・クレーゲル』を愛読したという。本書は戦後十年経って、“そろそろあの時期を掘りかえしてみたい”と書かれたものだ。とりたてて戦争を描こうというのではない。青春が、その時期に重なってしまっただけなのである。その意味で、これは吉行淳之介なりの『トニオ・クレーゲル』だったのだろう。
喘息による帰郷、相次ぐ空襲、命からがらの日々に仕返しするように、女の身体を求める。ことさら時代性を突くわけではなく、二十代前半の青年に共通する問題を描くところ、実は著者のこだわりなのだろうと思う。その視点は、べたべたしていながらも聡明で、力みがなく爽やかでさえある。
戦争が終わって、最後に主人公はこう考える。
『死ぬことについてばかり考えさせられてきた僕は、今度は生きることを考えなくてはならぬ時間の中に投げ出されてしまったのだ。』
それを文学青年的に悲壮ぶるでもなく、したたかにこう結ぶ。
『素朴な自尊心なぞ抱いていては、到底これからの時間の中で生き延びて行くことは不可能のように思える。僕は歪んでゆく内部に頼らなくてはならぬのだ。』
漱石の『それから』を彷彿とさせるラストは、戦後への船出を思わせる。どこかへ向かうために、あるいはどこかから出るために、著者にとっては書かねばならぬ作品だったのだろうと思う。
最新の画像もっと見る
最近の「戦争文学」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事