江藤淳『成熟と喪失』で、特に重要なテクストとして取り上げられている。
“第三の新人”といえば遠藤周作くらいしか読んでいなかった。いちおう近代文学を系統だてて読んできたが、戦後派まで読んだところで年表に沿うようなやり方をやめてしまった。それで私の中で穴の開いたのが“第三の新人”あたりの世代なわけである。昭和三十年前後、というのも何故か古臭く感じていた。戦前のものよりも、古く思えてしまったのは、おそらく若かった私の早とちりだろう。
しかし『成熟と喪失』を読んで、見方は変わった。文学をやる上で、看過できない問題がこの頃の作品に山積しているのだ。
作中、地に足のつかないような男は、家庭の再生を願って右往左往する。その悉くが喜劇的なのだが、笑うに笑えない。つまり何らの解決も、総括もされていない、根本的な問題なのである。
著者は意図せずして、こういう作品世界を描いたろうか。それとも時に不可思議な行動をとる作中人物は、あるデフォルメなのだろうか。
甘い懐かしさを、屈辱の中で発見してしまう。息苦しくも愛しい作品である。もし、“第三の新人”というジェネレーションが、意識的に提起していたのだとしたら、この時代は日本の近・現代文学におけるターニングポイントであるに違いない。
もう一度、『成熟と喪失』を読み返してみよう。著者の他の作品も。
