菊村到にこういう長編があるとは知らなかった。いつもアマゾンで探すのを、たまたまヤフオクで検索して見つけたのだ。
戦記文学の中でも、芥川賞受賞作等幾つかを除けば読み物的なのが多く、後半生はサスペンス作家に転向した著者だけに、本書の発見は驚きで、私を少なからず期待させた。なにしろ新潮社による『純文学書下ろし特別作品』の一冊である。
巻末を見ると、名だたる作品がこのシリーズで生まれたことを知る。安部公房『砂の女』、開高健『輝ける闇』、遠藤周作『沈黙』、大江健三郎『個人的な体験』などなど、そうそうたる品揃え。そこに肩を並べているのだから、菊村到の評価は当時相当に高かったのだろう。
この本の箱の水色と、題名そのものが示唆しているように、語り手は戦争中に軍隊で海にまつわる強烈な記憶を植えつけられ、作中において繰り返しそれがイメージとして呼び起こされる。この物語をひとつの絵画とするなら、戦争の記憶はさしずめ画用紙といっていいだろう。
描かれているのは、いわば不倫と、堕胎に至る顛末でしかない。菊村到の得意とする、取材に依る筋の展開があって、その事件性に緊張感が保たれはするが、全般に地味な話である。
ところが私は最近例にないほどの集中力で本書を読了した。そうさせる魅力がこの作品にあったのは確かだ。具体的にどこがどう、というのを指摘するのは難しいが、例えば語り手の不倫相手の夫婦関係を描写する一節。
【蛇を飼う夫と、めだかを飼う妻とが同じ屋根の下で暮らしているところを矢吹は想像してみた。それはやはり異常な光景として矢吹の胸に迫って来たが、蛇やめだかを、べつなものに置きかえてみれば、さして異常なこととも思えなくなりそうであった。
たいていの夫は、蛇を飼い、そしてたいていの妻は、めだかを飼っているのではあるまいか。】
心当たりがあったのだろう、私はどきりとするものを感じた。“蛇”は例えば車谷長吉がいった“毒虫”にも通じる何かであろう。
そして、こうした省察によって絶えず自他を監視し、己を制御し得るかにみえる語り手は(菊村到作品の多くに共通することかもしれないが)、結局は不安定な場所に、望んでか望まずしてか、回帰していくのだ。
『ある戦いの手記』で、“脱走は繰り返されねばならない”と書いた著者は、本作において“ふたたび暗い海のひろがりを、はてしなくさまよいはじめるだろう”と結んだ。
このまま純文学作品を書き続けていたら、安部公房や大江健三郎に並び称される、日本の代表的小説家となっていたかもしれない。
だが、菊村到の文体は、先に記したように、絶えず自他を批評し、残酷に解剖してみせるものだ。であるのに着地点は、不安で曖昧で、次への足場にさえなりそうにない。
戦中派が抱えるものを昇華し、文学的には評価を得たとしても、書き手本人は、帰結のあるものを、次第に求めていったのかもしれない。思い過ごしかもしれぬが、サスペンス作家への転向についての、今回私が推察したところである。
さて、本書の魅力については伝えきれなかった。感想文としては不足である。いずれ再読しよう。
