芸人が芥川賞をとった。テレビをほとんど観ないので、その芸人がどんな人物かは知らないが、また文藝春秋は話題性重視か、純文学の賞なのに、所詮は商業主義かと、苛立たしい思いでニュースを観ていた。文庫化されて、さらに古本で¥100まで下がるまでは読まないだろうと思った。新聞の文化欄にも度々登場して、太宰治が好きで、四六時中『人間失格』を持ち歩いているといっていた。ネタに決まっていると思った。
ところが。
帰省すると、母がこの本を持っていた。ミーハーな、と馬鹿にしたい気がしたが、芥川賞受賞前に買ったという。なかなか見る目があるんじゃねーのと冷やかしつつ、くれるというので、¥100さえも払わずに読むことになった。
しかし、つっかえた。先入観でマイナスイメージが倍増されていたのもあるが、文章がたどたどしく感じた。例えば以下。
【三秒に一度の間隔で無理に面白いことを言おうとすると、面白くない人と思われる危険が高すぎるので、(以下略)】
町田康節を真似しようとして失敗したような文体じゃないか? と、いきなりガッカリした。まさか終始この調子なのかと不安になった。
計算の内だったのか。その後、作風は落ち着き、読んでいてハラハラすることもなかった。芥川賞をとっても、穿った疑いを持たれなくて済みそうなくらいには、描き方に習熟が見られた。
とすると、最初のたどたどしさは、作為なのかもしれぬ。文章の不安定さをもって、何らかの作用を意図したのか。
そういえば最後の、後味悪い結末も、後味の善し悪しは別として、印象だけは強烈だ。これも、敢えてやっていることなのかもしれない。
笑いを、面白さを、非常な生真面目さで追求する二人の芸人の話。二人の芸風、求めるもののズレが、芸術感の違いが、やりとりの中で伏線化され、終盤へと向かっていく。
私はどうにも漫才のキャッチボールが好きになれない。大阪弁の、ボケ、ツッコミというかけ合いに、違和感を覚えてしまう。テレビの影響か、会話がそういう定型に染まっている人が少なくないように感じられる。関西の言葉を臆面なく真似る輩には、鳥肌が立ちそうになる。
というバイアスがあっても、なんらストレスなく読めた。活字で読む漫才に面白みや感動はなかったが、文学論を闘わしている明治・大正の書生たち、みたいな二人。自傷行為的な飲酒。真面目なのだ。
それだけに結末は滑稽で、哀しくて、後味が悪く、敢えて投入した過多な薬味のように尾を引いている。
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