村上春樹の若い頃の作品は好きだった。もうあらかた読んだと早合点していた。
好きだったが、すっとぼけた書きっぷりは、気にすると鼻につく。たとえばある年代を一言で表現しようとするとき、若い春樹は必ずどうでもいい外国人ミュージシャン等のエピソードを挙げる。そのソフトな身のかわしが、はがゆくもなる。
表題作『中国行きのスロウ・ボート』もその傾向を持っているが、結末は良くも悪くも習作的だ。真摯さは素敵だ、けれどもクサいし詩的にぼかし過ぎている。
『貧乏な叔母さんの話』
この著者特有の無国籍風、場合によっては“バタ臭い”作風がどうしても気になってしまった。実体がないのだ。地に足がついていない。きっと読む者が何かをそこに投影する入れ物のような作品なのだろう。
残念ながら投影するほどまでに感情移入できなかった。
『ニューヨーク炭鉱の悲劇』
場面の転換が突飛だが、不自然ではない。不自然なものをさらりと自然にやってのける技量には感心する。だが、映画祭に出品されるような外国の前衛的短編映画みたいで・・・。
ひとことで言うなら、いけ好かないのである。
『カンガルー通信』
翻訳を読んでるようにしか思えなかった。そんな話し方をする日本人がリアルに想定できなかった。
意図してやっていることなのか、外国文学の影響から抜け出られず模倣してしまっていたのか、判断はつきかねる。
『午後の最後の芝生』
『土の中の彼女の小さな犬』
『シドニーのグリーン・ストリート』
一作ずつ感想を書くのにも疲れてしまった。もし、このバタ臭さが意図されたものだとしたら、その狙いはなんだろうと考えてみた。
ひとつ。翻訳され海外でも読まれることを想定。
ひとつ。外国文学の入れ物を借りて、時代性や場所による限定から解放された思惟の試み。
ひとつ。外発性と内発性を弁証法的に・・・(んなわけないか)
と、好みは年齢とともに変わるのだということを再認識した。
ちょうど、スパゲティやハンバーグといった洋食を好んでいたのが、いつしか蕎麦や魚料理のほうがおいしいと感じるように。
といって、村上春樹の初期作品を、乗り越えるべき過去のものと切り捨てることはできない。そこでは何かが確認できる気がするのだ。自分がいかなる感想を得たかを省みるため、したがってバロメーターのように、今後もときどき紐解いていく気がする。
