先日読んだ野呂邦暢の評論で取り上げられていた代表的な戦争文学のうちの一冊。未読だったのでさっそく手にしたが、同じ著者の『魚雷艇学生』はいまいちだった記憶がある。過度の期待はせずに紐解いた。
『島の果て』
『単独旅行者』
『夢の中での日常』
『兆』
『帰巣者の憂鬱』
『廃址』
『帰魂譚』
『マヤと一緒に』
『出発は遂に訪れず』
以上9編が収められているが、解説によればこれらは次のような四種類に分類できるという。
1 戦争体験を素材とするもの。
2 夢幻的なもの。
3 家族を描くもの。
4 紀行文学的なもの。
このうち1の他は正直退屈だった。特に2は当時流行った実存主義小説の和製版のようで、捉えどころがみつからなかった。私の読みが浅いのかもしれないが。
最後に収録されている表題作は、緊張感のある文体に支えられ、表現しきろうという意思が感じられた。書かれた年代も他のものより後であり、強烈過ぎた体験が、時の経過という濾過器を通したためか、より洗練されている。その変化を鑑賞できるのは、最初に収められた『島の果て』を読んでいるからで、この編集の工夫は良かったなと、読み終えてから思った。
それで、『島の果て』はもう一度、頁を繰った。驚くべきことに、早くも終戦の翌年に発表されている。それなのに微妙なディフォルメによって、見事に小説化できている。体験を、その意義を、処理したり、心を整理する暇もなかったはずだが。
こうして再び本短編集を振り返れば、著者が『出発は遂に訪れず』を得るためにも、これら八編は紡がれねばならなかったのだろうと思う。まさに、体験を意義づけ、心を整え、自らの“文学”を確立するために。
もし戦後間もない頃のエッセイや日記を載せた著作があるなら読んでみたい。いったいどうやって、燃え尽き力尽きることなく、体験を消化し、また昇華していったのか。燃え尽き易く、いつも消化不良に悩んでいる私には、この著者の心の在処が気になる。
