本棚が収納率150%くらいになってしまったので、年末に整理(最近の流行り言葉では“断捨離”か)をした。本書も一瞬、ブックオフ行きに選別しようとして、思い直した。
私にとって兄のような存在だった歳上の友人(以下Nさんと呼ぶ)が、仕事の失敗で落ち込む私のために送ってくれた本だった。30歳当時の話だから、もう10年前にもなる。
しかし私は読まぬままに積ん読し、いつしか本書の存在すら忘れていた。若い頃、マルクス『ドイツ・イデオロギー』を読んで溜飲を下していた私には、自己啓発本にありがちな、「現状を変えるのでなく解釈を変えよ」、という19世紀ドイツのイデオロギストらよりも蒙昧で、断定的な論調(それが強者の側にとって都合の良いものだけに)が許容できなかったのだ。
読む気になったのは、まるでタイムカプセルのように、頁に挟まれていたNさんの手紙を手にしたからだ。私の失敗に寄り添うような文面の後に、ついでのように「本を送ります」と。10年来の不誠実を謝るような思いで、私は頁を繰っていった。
軽い内容だし、ニートは親のせい、フリーターは自己責任、母子家庭の貧困は母親のせい、ようは解釈を変えなさいという話、強者の論理だ。著者の主張には、ほとんど反感をしか感じなかったけれど、この本を書店で手にし、荷造りし、私に送ってくれたNさんを想うと、胸が熱くなった。
私こそ、Nさんの苦難に寄り添うべきだった。
白血病と闘っていた彼は、弱音も吐かず、かえって私を心配し、その後、帰らぬ人となってしまった。
スピリチュアルなものにすがってみるほどに、深い絶望がNさんを見舞ったのだと思う。著者は死ぬことは本来の場所に還ることだとした上で、病気も含め、苦難は学習のため、自らを高めるためにあるという。それは不運ではなく、無駄でもなく、宿命なのだと。
こうした主張に違和感しか感じないのは、まだまだ私の苦難など、苦難ですらなかったということか。
なお、知らなかったが、著者はテレビなどの露出も多い有名人らしい。需要があるのは、それだけ追い込まれてしまった人が多いというのもあろう。また、かつて人が考える土台・助けとして、文学や哲学を自ら手にしてきた文化的風土は廃れ、テレビ、占い、そして安易な自己啓発本に解を求めるようになってきたからかもしれない。
内容はともかくとして、本書は、ひとつのスイッチとして、本棚の奥に残しておこうと思った。Nさんへの感謝、追悼を忘れぬため。また、思いやりに欠けがちな自らを振り返るため。
