『わが解体』(高橋和巳 河出文庫)
高橋和巳、最晩年のエッセイを集めたものである。
エッセイとはいえ、その片仮名の響きから感じられる軽みとは無縁の、重さに満ちた散文集だ。“憂鬱”の次元を超越し、生命を磨り減らすような重さ。
高橋和巳作品が持つ純粋さ、それゆえに破滅的に雪崩れることをも辞さないヒリヒリする誠実さ。そういった要素が、死を目前にした生の声として、本書には濃縮されて紡がれている。
巻末の解説は謂う。
高橋和巳の存在は忘れ去られている。たんに読まれていない、というだけではない。憐れまれ、嘲笑されてさえいるかもしれない。その「苦悩教の教祖」や「下降志向」、あるいは漢文脈の装飾過多な文体が致命的にふるくさい、というだけではない。高橋和巳の存在そのものが、はるか昔に過ぎ去った学生運動や全共闘運動のシンボルであり、カリスマであり、犠牲者であるにすぎない、そう思い込まれているのではないか。
高橋和巳、最晩年のエッセイを集めたものである。
エッセイとはいえ、その片仮名の響きから感じられる軽みとは無縁の、重さに満ちた散文集だ。“憂鬱”の次元を超越し、生命を磨り減らすような重さ。
高橋和巳作品が持つ純粋さ、それゆえに破滅的に雪崩れることをも辞さないヒリヒリする誠実さ。そういった要素が、死を目前にした生の声として、本書には濃縮されて紡がれている。
巻末の解説は謂う。
高橋和巳の存在は忘れ去られている。たんに読まれていない、というだけではない。憐れまれ、嘲笑されてさえいるかもしれない。その「苦悩教の教祖」や「下降志向」、あるいは漢文脈の装飾過多な文体が致命的にふるくさい、というだけではない。高橋和巳の存在そのものが、はるか昔に過ぎ去った学生運動や全共闘運動のシンボルであり、カリスマであり、犠牲者であるにすぎない、そう思い込まれているのではないか。

身近に文学を愛好する者の少ないこともあるが、いまだかつて、高橋和巳を愛読している人に出会ったことがない。幾つかの著書について、感想を述べ合える人さえ、周囲にいない。寂しいことだ。
ふるくさいと、私は思わない。しかし、バブル期が、言い換えればポストモダンの風潮が最も忌み嫌い、乗り越えようとしたのが、高橋和巳的なスタンスだったであろうこと、それはなんとなくわかる。浅田彰や田中康夫が読まれた文化的状況は、反作用のひとつだったのだろうと思う。
私は世代として、ポストモダンを反作用として経ねばならない必然性を持たなかった。すでに世間は冷めていて、かえって過去の、歴史としての学生運動に感銘を受け、文献を紐解いたりした。高橋和巳を手にしたのも、そういった文脈の一つだったと記憶している。
全共闘を支持して京大助教授を退官した、という経歴は小説を読む過程で目にした。今回、その経緯を、本人の遺著によって詳しく知ることができた。
表題作は当時よく謂われたスローガン“大学解体”を自らの身に背負って解釈し直そうという意図があったのだろうか。本当に解体を目指し、自己否定を体現していったエリート学生もいたであろうが、多くは、運動の下火になるに従い、拳を下ろし、日常に回帰し、就職していったのであろう。
そういった切り替えの速さ、上手さを備えた多くの日本人の中にあって、自分を“解体”しようという。病気による死生観の変化もあったのかもしれないが、執念、文学への揺るがぬ執念が活字から目に痛いほど、ほとばしる。・・・