山代巴の代表作とは知らずに手にした。編集したもの(原爆詩集と『この世界の片隅で』)は読んだことがあったけれど、本人の小説を読んだ記憶はない。
おそらく文庫本は絶版になっているだろう。新刊の書店で目にすることはないし、古書のチェーン店でも見かけたことがない。私がいまさらになったのも、その辺の事情に流されてのことだろう。そう考えると惜しい、というより悔しい気もする。良いものが売れて市場に生き残る、当然のような成り行きが、純文学においては通用しない場合が多いのだ。こうした状況に流されて、受動的に、手に入りやすいものばかり読んでいるわけだ。
これは考え直さねばならない状況だ。ブックオフでお得に、という経済的な能動策が、実は純文学を読む上では受動に陥らせていたわけだ。
と、感想文の場なのに、話が逸れてしまった。
ひとりの女性(セキさん)の生涯を描いた物語だ。最初に七十六歳のセキさんが登場し、彼女に聞いた話だと断って小説は始まる。ベタな形式の導入で、退屈して読み進められなくなるのでは? と危惧したのも束の間、すぐに熱中して頁を繰っていた。
私が歳を重ねて、こういった形式の保守的な純文学に味覚が合うようになったのだろうか。若い頃は感情移入できなかった記憶がある。文芸同人雑誌における年輩者の作品にも、これに似た物語形式がよくあって、血気盛んな私は退屈でたまらなかったものだ。
いま思えば、若いときに、本流とでも呼ぶべき作品に触れていたから、いまになってその味が理解できるようになったのかもしれない。
古い高水準の同人雑誌や、往年の私小説などを読み漁りたい気持ちが湧いてきている。歳を経て、感じ方はこうも変わるのだ。その自分の変わりようを観察するのも楽しいものだ。
それにしても、明治から昭和初期の農村。カルチャーショックといっても過言ではない。これでは男子は兵隊を苦ともせぬだろうし、女子は進んで女工になっただろう。近代日本を支えたのは、農村の過酷だったといっていい。
と、さまざなことを考えさせてくれるほどに、描写も構成も、良かった。広島に住んだことがあるから、会話のリズムや響きがイメージしやすかったのも、私にとり良かったのだろう。
