先日、『戦争PTSDとサリンジャー』という評論を読んだ。テキストとして『エズミに捧ぐ』と『愛らしき口もと目は緑』、『バナナフィッシュにうってつけの日』が取りあげられていたので、同時並行で『ナイン・ストーリーズ』も紐解いた。
何度目になるのだろうか。半生を共にしてきた本のひとつだ。そういう本を持つということはラッキーなのだろう。できればアンテナを広げ続けて、そんな本を少しずつ増やしていければと思う(加齢と共に好みが固定化され冒険もしなくなる傾向、これには大いに逆らう必要がある)。
先に述べた評論において、今まで窺い得なかった視点、切り口からの読み方を知って、久々に文芸評論の面白さを味わった。新解釈によって自らの読み方にも別な視座が加わり、再読も楽しめる。
せっかくだからと、取り上げられた三編だけでなく、“ナイン・ストーリーズ”すべてを通読した。『戦争PTSDとサリンジャー』における、PTSDの症例から類推して行間を読み解くスタイルに影響されたらしい。気にすればいくらでも気にすべき描写が溢れていることを知った。
たとえば『ド・ドーミエ=スミスの青の時代』作中。天啓のごとき描写が二度ある。以前は文学的な象徴、程度に捉えていたが、その突飛さや語り手の不安定な様子から見て、これはフラッシュバックの様子を描いたものかもしれないと思った。
『テディ』においても、戦争の影響を類推できなくはない。インド哲学や仏教、あるいは禅を援用して社会通念を批判するスタンスは今では飽き飽きするようなものだが、朝鮮戦争直後の世相においては、切実だったのだろう。
テディの父も軍歴を持つことが描かれている。この父、俗物のように表現されているが、それは戦争や、戦争をせざるを得ないアメリカ社会の通念を象徴しているように思える。とするなら、テディはそういった汚辱の中から生じたスピリチュアルな抜け道を象徴していると言っても間違いではなかろう。大げさに言えば、『テディ』を生んだのは、アメリカの戦争PTSDだったのかもしれない。・・・とでも解釈せざるを得ないほどに、この短編は飛躍している、逃避している気がするのだ。
