よい子の読書感想文 

読書感想文541

『戦争PTSDとサリンジャー  反戦三部作の謎を解く(野間正二  創元社)

 PTSDについて調べるため、ネットサーフィンしていて見つけた。
 2005年発行。アフガン、イラク帰還兵のPTSDが話題になり始めた頃だろうか(サリンジャーの訃報まではまだ5年の間がある)。
 幾つかのサリンジャー論をかつて読んだ。他の評者も戦争の影響には言及している。ただ、それがPTSDという病名によって、考察の糸口が具体化された本書は斬新だ。
 取り上げられるのは『ナイン・ストーリーズ』所収の三編。
『エズメに』(野崎訳は『エズミに捧ぐ』)
『愛らしき口もと目は緑』
『バナナフィッシュにうってつけの日』
 同時並行的に『ナイン・ストーリーズ』も紐解いていった。ふるさとの行きつけの店でくつろぐような、優しい安堵感に包まれながらの読書ができた。そうだった、サリンジャーがいるじゃないか。俺には『ナイン・ストーリーズ』があるじゃないか。と、日常に押し流されて忘れていたことが、この二冊の通読で想い出された。血が通っていく気がした。
 本書は試論と呼ぶべきもので、やや荒削りで無理な考察も散見されたが、今まで何度も読みながら、行間の謎を窺ってきたサリンジャーの短編について、新たな視点から読み直すよすがとなり、大変有意義な読書になった。
 構成が丁寧でいい。序章『PTSDとは何か?』で、その診断基準や戦争によるPTSDの特徴を説明してから本題に入っている。トラウマとかPTSDは一面的なイメージが一人歩きして、わかったようなわからないようなところがあり、これは参考になった。
 続いて第一章『語り手は、なぜ事実を語らないのか』で『エズメに』を、第二章『酔っていても言いにくいこと』で『愛らしき口もと目は緑』を、最後に第三章『シーモアの死が意味するもの』で『バナナフィッシュにうってつけの日』が取り上げられる。
『ナイン・ストーリーズ』の中で、特に気をつけて読んできた短編が『エズメに』と『バナナフィッシュにうってつけの日』だったので、著者がどういった解釈をするのか興味深く読み進んだ。

 第一章。
【ガスマスクの袋に、ガスマスクではなく、本を詰めこんだのだ。このことは、本気で(命がけで)、読書して作家になりたいと考えていたことを暗示している。さらに、殺し合いの場である戦場ですら、本を読みたい性格、あるいは本を読めると信じている性格をあらわしている。戦場にむかないナイーブな神経をあらわしている。】(P52)
 エズメに対して自分は短編作家だと語る一言から、ここまでを連想している。私には欠けていた発想だった。
 また同様に【ふつうの兵士は、戦場ではタイプライターをもち歩かない。戦場でもタイプライターをもち歩いていたのは、作者サリンジャーがそうであったように、戦場でも小説を書くためである。「私」は戦場でも小説家でありつづける希望をもち、そのための努力をしている。こういう克己心のあるまじめな心性は、こころが失調したときには、ストレスに敏感に反応して、かえってストレスをためたり、つよめる方向にはたらく。】として、タイプライターという些末に思える小道具から、数々の(解釈の)選択肢を導いてみせる。思い至ることのできなかった私のこれまでの読書を恥入るのと同時に、文学の奥深さを改めて思い知り、その可能性に感嘆させられた。わずかな描写、複線が、こうまで解釈に幅と深みを与えうるのだ。
 ただ、腑に落ちない点は幾つかあった。本評論で「私」は“軍曹”であり、“九人の兵士を部下にもつ小隊長”と記されている。野崎訳では階級は“見習い曹長”だし、“九人の部下をもつ”とも“小隊長”とも出ていない。翻訳で生じる差異なのか。いずれ原文を見てみたいと思うが、翻訳では文学的あるいは文化的知識を発揮した意訳がよくされる。それを外国語の素人が批評することはできない。哀しいし悔しいことである。私があまり外国文学を読んでこなかった一因はここにある。

 第二章。
 なんとも切ない、やり切れない話だなと、大人になってから注目しだした『愛らしき口もと目は緑』。まさかこの短編を戦争PTSDに関連したものとして取り上げるとは想定外だった。なにしろ作品中に軍隊の話題が出るのは一度きり、酔った勢いで飛び出た『再入隊云々』の放言だけだ。
 ところが著者の解釈は私の想像を超えている。PTSDの患者に見られる傾向とアーサーの言動を比較し、アーサーが戦争PTSDである可能性を類推する。そして『酔っていても言いにくい』ことである、性的不能、これも戦争PTSDの類推と繋がっていく。
 僅かな記号から、行間に放たれた膨大な意味を読み取る。自分では深読みしてきたはずの短編集だけに、その先の先を読んで予測もできなかった解釈を与える著者の論究には圧倒される。場合によっては、そうまで読むかと呆れるほどだ。
【アーサーの性的な不能は、先にも述べたように、この作品の登場人物全員に影響を与えて、その生活をつらいものにしている。戦争によるPTSDの影響は、帰還した兵士だけでなく、そのまわりの人間にもつらい思いをさせることを描いている。】(P126)
 そうなのかもしれない。しかしサリンジャーはそこまで意図して書いたのか、意図せずして現れてしまったか、あるいはまったくの読み間違いか。時代背景やサリンジャーの経歴を鑑みれば、間違いはないだろうが。

 第三章。
 グラース家の長兄シーモアの死を描く『バナナフィッシュにうってつけの日』。
“バナナフィッシュ”とはなんなのか、シーモアはなぜこの日に自殺したのか・・・以前から何度も読んでは考えてきたことだった。
“バナナフィッシュ”については、井伏鱒二『山椒魚』のように、肥大していく自意識の象徴だろうかと考えた時期もあったが、いまは“バナナ穴”とは軍隊のことと解釈している。したがって“バナナフィッシュ”は軍隊に入って損なわれてしまった若い人々のことであろうと。この見解は本評論を読了後も変わらない。
 変わったのはシビルの存在意義だ。サリンジャーはシーモアに或る歌を口ずさませて、読者にヒントを与えているが、外国文学の素養を有しない私はまったく気づかなかった。
『ライ麦畑でつかまえて』のフィービーのイメージに引っ張られていたようだ。ホールデンは最後の遊園地の場面で一縷の救いを得る。シーモアも、何かしら満ち足りた気持ちで死んだのではないかと、私は甘い希望的観測を持ち続けていた。
 そういうメルヘンチックなカタルシスを得られない地平において、グラース家の物語は綴られ始めたのか。本評論を読んで、私は改めて一連の中・短編を再読していこうと思った。
 自分の読みの浅さや思い込みに気付く。他の可能性を教えられる。いまさらながら、文芸評論の面白みを再認識した。
 ついでながら、幾つかの著者のPTSDに関する言及から、自己を省み、俯瞰する機会にもなった。


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