立て続けにこの作者のものを本棚から引っ張り出した。私は他に『武蔵丸』と『業柱抱き』を持っている。直木賞作『赤目四十八瀧心中未遂』もかつて読んだが、本棚にないので、実家にあるか、図書館で借りて読んだのかもしれない。
処女作『鹽壺の匙』よりも、作風に人工甘味料みたいな作為を感じた。それが悪いとはいえないが、最初の、生のままの、素材みたいなものと比較される第二作は、誰であれ厳しい批評眼にさらされるものと思う。
具体的にいえば、煙に巻くような筋。可能性の提示でもあろうが、読者への丸投げとも取れてしまう。きっとそこに不満を感じるのは、こちらが勝手に作者へあるものを期待する故だろう。
さてその期待するものとは何か。作中、ある男に共感するという語り手はこういう。
【たとえばこの男と来たらスウェーデン製の高級車を乗り廻し、身に付けるものも凡て一流商標商品であるのに、タバコだけは私たちの少年時代からあるゴールデン・バットであって、これに強い愛着を感じているらしいのが、ほの見えるのであった。このいがらっぽい安物タバコの味は、恐らくこの男をこのようなやくざ者まがいにしたものと、どこかで繋がっているのであろう。私はこの男のタバコについて考える時、不可避的に「私たち」という言葉を使って考えざるを得ないことに、いつもある辛いものを覚えた。併しこの男をやくざ者まがいに追い込んだものが何であるか、を穿鑿することだけは避けねばならないことであるし、ましてそれにふれることは。】
という具合に、表層的には現れないものを作者は見ようとするし、場合によってはそれをあからさまに描いてみせる。逃げ場もなく。
何もない部屋で息をひそめるように生きた日々を、辛さではなく救いだったと書く。若いころにはポーズにしか思えなかったこうしたスタンスが、今回の再読で違って見えた。人は、場合によっては、よりシンプルに生きたいこともあるし、捨てて捨ててたどり着いた奈落に、ようやく腰を落ち着けることもあろう。そうした顛末に至らざるを得ない禍々しい衝動。いうなれば著者へ、私が勝手に求めるのは、そのへんの心の在処の表現だった。
ところで当作品集の中ではやはり表題作の『漂流物』が良かった。続けて二度読んだ。独白のリズム。こういう作品を手にするとき、方言は武器になりうると感じる。
いまなら中上健次も、まったく違う読み方ができるかもしれない。しかしそう思い至るときに「そもそも・・・」と私は自らに問う。わからないほうが、よかったのではなかったかと。
と、恐ろしい自問に耳傾けつつ、私はかつて読んで行方知らずの『赤目四十八瀧心中未遂』をネットで注文していた。
