『硫黄島』という名作を残しながら、推理小説作家に転向してしまった菊村到。古本屋で探しても推理小説しかみつからない。試しにアマゾンでヒットしたものをくまなく探してみたら、本書をみつけた。ようやく見つけた、という感じである。
表題作の他12編を収める短編集だが、既読のものは『ある戦いの手記』だけ。非常な期待を持って頁を開いた。以下各々の感想を。
『捕虜をいじめたか』
語り手の親戚、浜田の相談話に基づく話。
戦中、捕虜収容所の通訳を勤めた浜田。その後任である山田という男が浜田との人違いで戦犯として逮捕され、浜田に復讐しようとしているという。
語り手は会見の場に用心棒として同席するわけだが、山田は現れない。しかも浜田はそれ以降、精神に変調を来していく。
菊村到らしい作品だと思う。心当たりはないが、後ろめたい。それを過ぎたこととしてやり過ごせない。著者が意図したかどうかは別として、この通底するテーマは戦後の日本人一般を鋭く衝いてやまないはずだ。突き放すような結末は神経質な余韻を残し、読む側に様々な憶測や躓きをさせる。やや荒削りな短編ながら、読後感は強烈だ。
『屠殺者』
結婚式場で狂態を演じる男・有本と、いわばその被害者である語り手の私。有本の手記を中心に据えながらも、やはりラストはぼかされ投げ出されてしまう。
戦中の味方殺しと人肉食にまつわる手記は、有本の狂態を説明し、その失踪を正当化するに見えて、実は借金から逃げるための方便だったという可能性をも残して話は切られている。
ぼかすには強烈過ぎて、しかしつきつめるにはあまりにも苦しいテーマである。『硫黄島』にも用いられるモチーフ、問題意識が、ここでは消化不良気味に沈潜している。
『天皇陛下万歳!』
こちらも結婚式での失態をきっかけに語られる戦記。
感傷とルサンチマンと、やり場のないいらいらしたものが蟠る。それが文学へと飛躍していくかに見えて、飛躍しきれない印象を受けた。筋が安易過ぎたのも一因だろうが、最後に『ふいにはげしい自己嫌悪におちこんだ』と書いて、読者をまた違う意味で突き放してしまう。読む側は語り手に感情移入しようとしつつ読むのだが、それが裏切られて、自己嫌悪に付き合わされた感じになってしまうのだ。
しかし、著者の意図はどうあれ、この作家はこういう立ち方をしていたのだと思う。媚びようとはしない。苛立ちや不安を、いわば糧にするような立ち方。
『狙撃』
掌編である。他の作品よりも静謐な感じがするのはなぜだろう。
人物を描こうという意思は感じられない。ここでは江尻という男の殺意が、同棲する女によって踏み絵のように試されていく過程だけが描かれる。
酷薄である。しかし、良い小説だと思う。鏡を見続けることを自らに強いるような、執拗な執筆態度が、無駄のない輪郭のなかにくっきりと浮かんでくるのだ。
『無名戦記』
深刻がる姿勢を客観視する視点を得よう、という実験なのだろうか。この作品は他人の戦記を主題とし、最後に語り手は戦記の話し手にこう問う。
〈かれは戦場でいくつかの身近な人間の死にもふれている筈だし、またかれ自身、人間というものを、確実に殺しているのだ。
そのような死の重さが、かれの内部で、どういうかたちで、解消されてしまっているのか。
「あなたは、戦争によって少しも傷ついていない、という感じがしますね」〉
これに対し相手はこう答える。
〈「戦争によって傷つくというのは、深刻癖のある一部のインテリの幻影か、妄想でしょう。戦争は、ぼくにとって、青春であり、生活だった。その中で、ぼくは、ただ生きてきただけですよ」
かれは、いくぶん腹立たしげにそう答えた。〉
“かれ”を非難するのがこの短編のテーマではあるまい。遠藤周作が『海と毒薬』で描いたものとは反対に、ここでは他者は完全に語り手との関係性を離れている。中間小説的な作風がもたらすものなのかもしれないが、ここまで自らを孤立させるような語り手がもし菊村到本人であるなら、それこそ著者が“どういうかたちで、解消”していったのかを知りたいと思った。
これら戦記文学を書くことによって、という解釈は正しいのだろうか。
『インパール挽歌』
挽歌とは名ばかりの、やや通俗小説風な作品である。内容は異なるものの『無名戦記』に似た印象を持った。
他者はいかに戦争体験を総括しているのか、というモチーフが感じられる。
〈その熱っぽさは私を不安にした。この人の内部ではまだ戦争は終わってはいない。戦争の幻影がこの人の胸の底のほうで重たく揺れている。敗残の将軍とはおもえぬいきいきした輝きが表情全体にみなぎりはじめる。〉
牟田口中将と思われる老人『M』に戸惑いつつも、少なからず戦争を引きずっているだろう著者をはじめとした戦中派は、合わせ鏡を見るように、結果的には自らのスタンスを知るかもしれない。戦争の亡者であるかのような『M』もまた、戦中派のタイプのひとつであるから。
とはいえ小説としては手抜きを否定しがたい作品である。
『たたかう男』
同時進行で二つの話が交互に語られながら、しだいにそれらが接近し、ラストで結合する。こういう組み立て方をした小説は他にも幾つか読んだことがあるが、菊村到のその技術に関しては上手いと思った。どう重なり、いかなる裏付けが得られるのかと、緊迫した雰囲気の中で読めた。
しかし突飛な終わり方は、某かを暗喩するのでもなさそうで、ちょっと安くさい読み物になりかねない。惜しい作品である。
『グルカ兵の影』
サスペンス風の戦記だが、好短編である。
人間にとって幸福とは何か、と青臭い自問自答を始めた四十歳の元伍長が、元小隊長の経営する貸金会社に就職する。
屁理屈のような自己正当化で戦争と、戦後の自らを救おうとする語り手の欺瞞が、ラストの事件で鮮やかに暴露され、自分で振り上げた両刃の剣に完膚なきまで叩きのめされるラスト。純文学とはいえなかもしれないが、こうした作品がきっかけで推理小説に転じていったのかと、納得してしまっても良いくらいに見事な作品だ。
『ある戦いの手記』
最近読んだばかりなので、飛ばそうと思ったが、やはり頁を繰っていた。この作品の粘り着くような文体は、初めて読んだ15歳以来、私を捉え続けている。
作中、ある不可抗力によって語り手は自らの自由を、自由な選択を失わされている。その不可抗力とは時代であり戦争であり予備士官学校であり、また語り手の弱さなのでもあるが、区隊長である井田中尉をその代表として捉え、憎しみを生きる糧にしていく。井田中尉もまた、許されざる候補生である“ぼく”を打倒すべき敵ででもあるかのように扱い、互いの憎悪は粘着していくのだ。
〈いわば存在の秘密といったようなものを、かれはつかんだのではなかったか〉
語り手は最後に井田中尉をこう回想する。存在の秘密とはなんだろうか。幾度も読んでいながら、ここがまだ読み解けない。おそらく二人を生かしていた力の源泉と、その意外な親和性のことだろうとは思うが。
この本に収録されているものの多くが中間小説であるぶん、本作は際立ってみえる。何度読んでも良い。
『後に続くものを信ず』
伝記のような話である。
菊村到は新聞記者でもあった。本作はまさに新聞記者によるドキュメンタリーという体裁である。
良し悪しはどうあれ、興味深く読めた。取材して裏付けを取りながらストーリーが組み立てられる。ミステリーという分野は、意外と職業的に得た文体にマッチしたのかもしれない。そう思わせる小品である。
『沈黙の空』
救いのない話である。戦争というものが個人だけでなく、その周辺をも傷つけ、破綻させていくものだったのだということを、極端なほどに描いている。
損なわれた人間が損なわれたことを自覚できずに招く悲劇。しかしそれが中年のヒロイズムみたいなものに支えられていて、悲しみが狂気じみていくのだった。
『悲しき暗殺者相沢中佐』
陸軍期待の永田鉄山少将を単身執務室に乱入し斬殺した人として、名前だけは知っていた。同時期のテロやクーデター未遂に比較して、クローズアップされることもなく、右翼の亡者みたいな印象しかなかった。永田鉄山の死を惜しむ声が多く、その行為が青年将校らの場合と異なり、同情されなかったのだろう。
こちらも伝記風のものだが、なんとなく相沢中佐の孤独に寄り添いたい雰囲気が感じられる。判官贔屓というやつだろうか。少なくとも言えるのは、著者の描く主人公は、いつでも孤独者ということだ。
『辻政信はどこにいる』
こちらも伝記、あるいはドキュメンタリー風の作品である。軽いタッチで、大衆誌向けに書かれたもののようだが、戦地に還るアウトローを描くというのは、『硫黄島』以来一貫したテーマだったようである。
ここにきて初めて私は、菊村到の戦記文学の限界を見た気がする。そのスタイルから自らを解放したかったのではないかと。自家中毒の文学。それは中間小説的な作品を書いても蟠り続けていたのである。
