15歳のとき読んだ衝撃は忘れない。私に大きな影響を与えた作品として、『ライ麦畑でつかまえて』や『きけわだつみのこえ』に継ぐ存在といっていいかもしれない。
読むのは何年ぶりだろう。作中、大庭葉蔵が同棲した女と連れ子を捨て置いて逃げる場面があって、そうとも知らずに幸せな様子をして待っている親子の様が、なぜだか私の脳裏に焼き付いていた。思い出すだけで泣きたくなるような、自分自身の記憶のように。
『斜陽』ほど作り物めいたポーズもなく、また中期の技巧的な作風も捨て、この作品は妙に真っすぐ響いてくる。といって破滅的な私小説とは対極的に、ファルスのオブラートはやはり纏っていて、太宰の“仕事ぶり”には感心させられた。
かつての、作中に自分を見出して心を鷲掴みにされる印象はないが、なぜあの頃、ああいった受け取り方をしたのかと、冷静に作品との関わり合い方について考えながら読めた。
『如是我聞』のような歯に衣着せぬ攻撃性ではなく、きちんと作品化しながら、“大庭葉蔵は人間失格なのか?”とプロテストする。その問いは色褪せることなく、問われ続け、またある種の人たちを励まし続けもするのだろう。
