よい子の読書感想文 

読書感想文317

『散る日本』(坂口安吾 角川文庫)

 安吾といえば『堕落論』が有名だが、本作はそれに続く評論集である。六十数年前、破壊と絶望の後、伝統の断絶や価値感の転覆に彷徨する世相にあって、『堕落論』は逆説的に真理をついて広く読まれた。
 いま、あの戦争以来の破壊が日本を襲っている。このような現実に向き合うとき、安吾ならば何をいうだろうか。たまたま積ん読していた本書を、私はこれも偶然ではないのかもしれないと思いながら携えてきた。
 十八編のエッセイ・評論が収録されている。ふざけたり大真面目だったり玉石混淆な気配。私なりに徒然と、気になった部分だけ取り上げてみたい。

『文学のふるさと』
 柄谷行人が高く評価していた記憶がある。
 安吾はここで、モラルのない、筋の通らぬ、帰結のない空白を、その救いのなさを、“ふるさと”と呼ぶ。救いがないということ自体が救いである、とも。私はふと車谷長吉を思い出したが、最後に安吾はこう書く。
《アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……》
 やくざな言い様に紛れて、安吾の展望していたものの遥さが窺える名エッセイである。

『私は誰?』
 小説家のあり方を徒然に語るかに見えて、含蓄ある人生論になっているのが面白い。支離滅裂に思えて、同時に論理が立っているのに感心する。
《私はいつも退屈だった。砂をかむように、虚しいばかり、いったい俺は何者だろう、なんのために生きているのだろう、そういう自問は、もう問いの言葉ではない。自問自答が私の本性で、私の骨で、それが、私という人間だった。》
 と書いた筆の先が乾かぬ間に、《そして私は、私を肯定することが全部で、そして、それは、つまり自分を突き放すことと全く同じ意味である。》と結語する。
 矛盾の振幅が激しいほどに、大きなエネルギーが生じるのであろうか。

『戦争論』
 珍しく、逆説でもなく皮肉でもなく、またファルスの衣を纏うでなく、ストレートに論じられる安吾の戦争観である。
 冒頭では戦争がもたらした科学と文明の進歩をあげて、その利益の大きさを讃えている。『即物的で安吾らしいが、好きになれぬ論理だな』と警戒して読んだら、意外にも論調は真面目で以下のように展開していく。
《空想の限界を超えるに至っては、これはもはや人間のものではなく、まさしく悪魔の兇器である。それのもたらす被害は、当然利益よりも甚大であり、今日まで戦争がもたらした効能も、この悪魔のバクダン以後は、ついに被害を上廻ることは出来ないであろう。》
《兵器の魔力、ここに至る。もはや、戦争をやってはならぬ。断々乎として、否、絶対に、もはや、戦争はやるべきではない。》
 破れかぶれのようなことを書き殴るかに見えて、安吾ほどあの時代に真面目だった作家はいないのではないか。何をも恐れぬ彼は天皇をすら批判し、天皇制復活を怒るのである。

『孤独と好色』
 読んでいて心を貫かれるような、逃げ場のなさと、やりきれなさを感じた。
 安吾は《人間は最も激しい孤独感に襲われたとき、最も好色になることを知った》といい、《孤独感の最も激しいものは、意志力を失いつつある時に起り、意力を失うことは抑制力を失うことでもあって、同時に最も好色になるのではないかと思った》と続け、それは人間を愛する故だと書く。そうなのだろうか。私は個人的に、認めたくない感じがしているのだが、否定する論理も根拠も浮かばないのだ。

『チッポケな斧』
 戦後の日本が革新でなく旧に復していく、その安易さ、文化の低さを斬る。安吾にせよ太宰にせよ(スタイルは違えど原民喜も)、国破れて後の新しい日本に、人心に、晴れ渡る空を憧れるようにして期待していたのだろう。
『戦争論』でも触れていたが、旧態依然として勤勉に健気に生きる日本人を、安吾は“蟻”といって揶揄する。《再び直ちに、地震につぶれて火事に燃える家をシシとして、うむことなく、建てる》のではいけない。教訓のない勤勉は蟻と同じなのだ。
 またここでは天皇に背を向けて歩いたことを批判された国会議員を弁護して、その意固地さを例にこういう。
《究理の徒はイコジである、イコジであることによって真理の一部を逸しもするが、イコジでなければ真理をまもれないのが当然であろう。》
 ポーズではない。安吾が書くと味わい深い言葉だ。
 そして究理のためには民意をも無視せねばならぬとするのは安吾にしては意外で、しかし安吾がいうからこそ説得力ある話だった。歴史と現在の生身を的確に使い分ける敏捷さを備えている作家だったのは、今回の発見のひとつである。

『戦の文学』
 私が机上で躓いたら、また読もうと思った。文芸評論や文学論といった大仰なものではないけれど、ここではジュネ『泥棒日記』を例に引きながら、文学の本質とでも呼ぶべき何かが感覚的に、憑かれたように、語られる。
《自分だけの独特の言葉と調子》でこそ、小説は戦えるのだという。虚飾や甘えや感傷に目を曇らされることなく、私も私の文体を掴みたいと思った。

 破壊された街々はいかに生まれ変わるだろうか。安吾が何度も書いたように、蟻の営みではなく、犠牲を無為にしてしまわない立ち上がり方を期待する。 そして激しく焼き付けられた記憶は、悲しみを、痛みを、恐怖を、絶望を、リアルに想像できる力として私たちを覚醒させたはずだ。外国の街が津波に飲まれたというニュースを、ヒトゴトとして聞き流し、身近なところでそんな災害が起こるとは露ほども想像できなかった日々は、3月11日を境に断絶された。得られた想像力を、無駄にしてはなるまい。
 震災を思いながら読み、こういう読後感に導かれた。


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