ふと“読まねば”と思ってアマゾンで注文した。読んだことがあるような気もしていたが、届いた古本を手にすると、かつて私の本棚にこの題名が収まっていたのを、ひとつの風景として思い出した。表紙のブリューゲルの絵も、記憶にあった。読み始めると、意外に新しい既視感に戸惑ったが、この感想文にアップされていないのだから、少なくとも7年は読んでいないのだ。それだけ私には印象的で、焼き付けられた作品だったらしい。この粘り着くような文体が……
『暗い絵』
表題作にして野間宏の処女作。日中戦争当時の京大左翼学生らを、その中にあって独自の道を行こうと苦悩する語り手の胸中を、ブリューゲルの画集にそれぞれの思いを託しながら描く。
頑なで、粘ついて、陰鬱な作風ながら、それを自滅から救うのは絵という客体化された存在であるように思う。絵によってそれらの暗さに色彩や形式や輪郭が与えられていく。それは象徴というよりは補完、暗喩ではなく仮託なのではないかと思った。友人らは獄死し、彼もまた昔の彼ではなくなるのであろう。しかし絵をいかに観て、どう解釈したかといった記憶は残る。ちょうど、この本の背表紙が私の勉強机の横に、風景として並んでいたことが、映像として刻印されていたように。
『顔の中の赤い月』
復員し会社勤めをする北山年夫とその周囲を描く。つかず離れず、美しい未亡人との交際は続くが、その距離は縮まらない。戦中派特有の苦渋が作品の後半を染めていく。落伍していく同年兵を救えなかったことが最後の場面でフラッシュバックされる。見事な描写である。だが……
『どうしようもなかったんだ。そして俺は、いまもまだあのときの俺なんだ。あの時と同じ状態に置かれたならば、やはり俺はまた、同じように、他の人間の生存を見殺しにする人間なのだ。たしかに俺は、いまもまだ、俺の生存のみを守っているにすぎないのだ。そして俺はこのひとの苦しみをどうすることも出来はしない』
この苦渋は染み出たものだろうか、出したものだろうか。自省的な戦中派特有のこうした姿勢が、何かひとつの理念や共同幻想にさえ見えて、私は初めてその真摯さに虚構の有無を疑ってしまった。
皆が皆、こうした自虐的なその後を生きたわけではなく、純文学をやろうというような人間だからこそ看過できなかったはずであり、我ながら不当な疑問を持ってしまったものである。
『地獄篇第二十八歌』
自我が先か性欲が先か。この偏執に私は目眩がして、わからなくなりかけている。
女はいう。
《「あなたはあなた以外のひとを見ることも理解することも出来ないひとよ。ほんとにあなたはただ御自分のことしかお解りにならないのよ」》
男は自問する。
《「俺は愛する女一人さえ理解できない人間だ。俺には他人というものを知ることが出来ない。本当の他人の姿というものを俺は見ることが出来はしない」》
終盤、男はダンテの首無し亡者に自らをなぞらえてみる。エゴイズムの亡者。こんな生真面目な問いかけが文学としてあり得たのだなと、私はふと驚く。そして震災に関して柄谷行人の言っていたことを思い出した。曰わく、いままで戦後文学は時代にそぐわずに用なしになっていたが、震災、原発事故によって、戦後文学がリアルになってしまった、と。
あのとき、あの後、私たちは自問を迫られたし、いまもそうせざるを得ない。
私がにわかに日本近現代文学を拾い直そうとし始めたのは、偶然ではなかったのかもしれない。
『崩壊感覚』
戦地での自殺未遂事件を背負い、失望の戦後を生きる男。象徴的な隣室学生の自殺。肉欲のみに突き動かされる男を襲う崩壊感。
じめじめと暗い自問自答や、ひとりごちる文体は、『自嘲』などと、ひとことで片づけられぬ苦味を読む側にも味わわせる。
手榴弾を抱えて震えている自分、上等兵に虐待されている図、首を吊り舌を出している学生、性欲のみによって繋がっている女の後ろ姿……。さまざまなイメージが自問自答の傍らで走馬灯みたいに浮かんで、迫って、消えていく。この手法は映画の発達しない当時としては非常に斬新だったろうと思う。『顔の中の赤い月』にもみられたが、見事な描写法である。
しかし、この救いのなさこそが救いである、なんていう破滅的な私小説風のカタルシスさえ、この作品たちは許容しそうにない。それが野間宏という人の、文学に対する態度であり、また戦争に対する態度だったのだろうか。
